Ich bin steindumm

2018/06/04 上善は小川の如し

 

 数あるバッハの『ゴルトベルク変奏曲』の中で誰の演奏が一番好きかと聞かれれば、わたしは迷わず、シュ・シャオメイの名をあげる。レオンハルトでも、グールドでもなく、わたしはこの中国人のピアニストの弾くバッハが好きだ。彼女との出会いは劇的だったが、本当に彼女を理解できるまでには30年近くの歳月が必要だった。彼女は長い時間をかけてゆっくりわたしに近づいてきた。それは彼女が、老子の「上善は水の如し。水は善く万物を利して而も争わず」を座右の銘としているからかもしれない。
  日本がバブル景気に沸いていた頃、わたしはスイスに留学していた。東欧では社会主義が崩壊し、人びとは貧しさを捨て、自由を求め、西欧を目指して国境を越え、チェコのドイツ大使館には亡命希望者がなだれ込み、ハンガリーの国境ではオーストリアに徒歩で逃れる人の長い列が続いていた。わたしが住むスイスの片田舎でも、そうした時代の激震のわずかな余波は感じられた。1989年6月4日にいつものように大学の授業にいくと、教室は騒然としていた。イランのホメイニ師が亡くなったことと、北京の天安門広場での虐殺の記事が朝刊の第一面を二分していた。その日から教室から中国人学生の姿が消えた。仲のよかった張くんと陳くんを次に見たのは、その数日後、大学の中庭で彼らが10人ほどの仲間と肩を組んで、鄧小平を批判する声明文を読み上げている時だった。白いはちまきが彼らの祖国の友人たちへの連帯を誇らしげに物語っていた。
  しかしその連帯も長くは続かなかった。すぐに中国人たちの間で「造反」が起き、密告者がでて、大使館員が大学に入り込んで、抗議行動に参加した学生を洗い出しているという噂がたった。わたしがある日、構内を歩いていると、フランス語の教師に指さされ、「こいつがスパイだ!」と叫ばれたこともあった。学内はそれほどピリピリしていた。それ以来、張くんとも陳くんとも会うことはなかった。
  わたしがシュ・シャオメイの演奏を聴いたのはその頃だ。アパートの最上階の屋根裏部屋で、ある夜ラジオをつけると、そこに静かなゴルトベルク変奏曲が流れていた。小さなラジカセから聞こえてくる演奏は、細部のニュアンスなど聴きわけられない、もどかしいものだったが、それは確かに名手のものだった。演奏が終わると拍手が起き、アナウンサーが早口で演奏者の名前を告げた。わたしにわかったのは、それがゴルトベルク変奏曲で、パリのどこかの教会でのライブで、演奏者が(たぶん)中国人だということだけだった。曲ひとつ分の短い出会いと別れだったが、わたしはその名前も知らないピアニストをその後もずっと忘れなかった。
  10年がたち、その間にわたしは博士論文を書き上げ、帰国し、日本の大学に職を得て、再び留学のチャンスに恵まれた。今度の行き先はベルリン。もうソビエト連邦も、東ドイツも、天安門も何もなくなったヨーロッパには、表向きは自由を夢見る人も、夢破れた人も、迫害も挫折もなくなっていた。アンペルマンと呼ばれる、東ベルリンのかわいい信号機がかつてここが別の社会主義国だったことをかろうじて思い出させる、賑やかな大通りで、わたしはふとあのゴルトベルク変奏曲のことを思い出し、CD店に入った。数多くのきらびやかなアルバムと並んで、端正なCDが一枚あった。Zhu Xiao Mei 朱暁攻(工は王)。あとで知るのだが、これは彼女が自費で作ったアルバムだ。それがベルリンで一番名のあるCD店で売られているのも奇妙だったが、試聴してみてこれがあの中国人ピアニストだということはすぐにわかった。ジャケットには、彼女が上海で生まれ、幼少から才能を発揮し、現在はパリのコンセルバトワールで教えているという簡単なプロフィールが書かれてあったが、衝撃的だったのはそれに加えて、彼女の輝かしいキャリアが14歳で「文化大革命」で中断され、5年間、内モンゴルの再教育キャンプに収容され、その後アメリカ、フランスに亡命したという経歴だった。わたしの中で突然、スイスで出会った中国人留学生たちの姿が再び甦った。先の陳くんの父は文化大革命で人民の敵と名指され、地位を追われ、二人の兄たちも就学のチャンスを奪われ、辺境の再教育施設に送られていた。唯一末っ子の陳くんだけが大学進学を許され、スイスに逃れた。フランス語もドイツ語も日本語も話す、優秀な青年で、とつとつと不遇を託ち、これは自分の本当の人生ではないと語った。陳くんとシュ・シャオメイはほぼ同世代だったのかもしれない、などと考えるうちにこの人のことをもっと知りたくなった。柄にもなくファンレターを書こうかと真剣に考えた。しかし、順風満帆とはいえない人の過去を根掘り葉掘り聞くことに躊躇もあった。ともかくも演奏には再会できたのだ、とわたしは自分に言い聞かせた。
  それから再び20年もの時が流れ、最近になってわたしはシュ・シャオメイが新しくゴルトベルクを録音し直したことと、彼女が自伝を書いてそれが日本語に翻訳されていることを知った。『永遠のピアノ』(芸術新聞社)という本には「毛沢東の収容所からバッハの演奏家へ ある女性の壮絶な運命」という副題がつけられている。30年の歳月を経て、ようやくこの人の人生に触れることができた。

 

 決して豊かではなかったが、清廉潔白な父と芸術を愛する母に温かく見守られシャオメイは幸せな幼年時代を送る。ピアノの才能を開花させ、10歳ですでにコンサートを開き、北京中央音楽学院に入学を許され、演奏家としての華々しいキャリアを積もうとしていた矢先に、毛沢東主導の「文化大革命」が始まる。これが人民や革命の大義に名を借りた、究極の嫌がらせと文化破壊だったことはいまでは周知の事実だが、幼いシャオメイにそんなことがわかるはずはない。周りで常態化する暴力の原因はすべて、自分たちのような「出身不好」、つまりブルジョア出身者にあると信じ込み、懸命にマオイズム(毛主義)に同化しようと努める。やがて「上山下郷」の掛け声のもと、北京のすべての芸術系の学生は農村に移住させられ、農民とともに衣食住と労働をともにするように命じられる。日の出から日没までひたすら農作業に従事し、夜は「告発と自己批判の会」。そんな毎日が続くうちに、人間の個性は摩滅し、意欲も希望も消えていく。若い音大生たちも、いままで自分が情熱を傾けていた西欧芸術がブルジョア的精神に他ならないと信じ込むようになり、「クラシック音楽はブルジョア芸術」「ベートーヴェンはエゴイスト」と自己批判をし、楽譜を焼き、学院は機能を失う。教師たちは紅衛兵に引きずり出され、学生の前にひざまづかされ、罵詈雑言を浴び、殴られ、蹴られ、墨汁をかけられて晒し者になる。それまでの恩師が便所掃除をさせられるのを、学生たちは冷ややかに見つめる。優れたピアニストが次々と自ら命を絶った。幼いシャオメイをいつも支えてくれた用務員の老人が「ブルジョアのスパイ」と名指され、構内で首をつった時、彼女は悲しみの中に、彼への憤りを感じさえする。それほどまでにマオイズムへの洗脳は完璧だったのだ。音楽教室は北京市内で虐殺された人びとの死体置き場になり、校内には死臭が充満する。こうした暴力への恐怖は、彼女に毛沢東への服従をますます強要する。「真の革命家はあらゆる感傷主義から顔を背けなければならない」と考え、家族への愛情を否定し、父を反革命分子として告発した。
  しかし「出身不好」者への弾圧はさらに加速した。やがて北京の芸術大学生は全員、内モンゴル張家口市の再教育収容所に強制移住させられる。そこでシャオメイは、「真の革命家への教育」が「白痴化」であることを知る。毎朝6時起床、行進、毛沢東語録を呪文のように朗読し、まったく作物の育つ見込みもない乾き切った土地を、来る日も来る日も凍るような寒風の中ツルハシで耕させられる。あっという間に生理もなくなり、病気になっても医者も呼ばれず放置された。落ちる士気を高めるために、あらゆる作業に「競争原理」が導入され、食事ですら、早い者勝ちになる。生き残るためには、友人の足を引っ張り、告発が日常茶飯事となる。日没まで疲労困憊するまで働き、夜の自己批判集会のあと、わずかな食事をとってようやく床につくことができるが、睡眠はたびたび深夜の避難訓練で中断され、一晩中山中を走らされた。こうした訓練をへてようやく人は白痴になり、真の革命家となる。14歳から19歳までが、ピアニストにとってどれほど貴重な時間であるかはいうまでもないだろう。それをシャオメイは、ピアノとはまったく無縁の農作業と洗脳教育に奪われた。
  病いに倒れ、生死の境をさまよい、奇跡的に回復した頃、文革も収束の兆しが見え始めた。彼女に突然ピアノへのやみがたい情熱が再燃する。「まさしく動物になり下がるぎりぎりのところまで追い詰められたその時に、揺り返しが訪れた。」「絶望の治療法は一つしかない。ピアノを弾くこと。」収容所を抜けだして、近くの村のピアノを弾きにいく。あるいは脱走して親元へ逃れ、ピアノを弾く。何度連れ戻されても舞い戻る。絶望の淵でシャオメイはピアノの真髄を、音楽院ででもコンサートホールでもなく、喝采とも名声とも無縁の極北の僻地で知る。


「鍵盤は氷でできているようだった。それでも練習しようと試みる。強く、早く、確かに。そうすることでいくらか体が温まるのだ。でもしばらくすると、すっかり凍えて、中断せざるを得ない。そこで私は外へ出て、収容所の中庭を走って体を温めようとした。しかし、どうにもならない。その時、パン先生が言ったことを思い出した。「指を温める一番の方法は、バッハの〈平均律クラヴィーア曲集〉のフーガを弾くこと、ポリフォニーの各声部がはっきり聞き分けられるようにね。」私は嬰ハ短調の第四番と変ロ短調の二二番を際限なく弾き始めた。第一巻の中で五声のフーガはこの二曲だけで、前者だけで主題が三つある。瞑想的な音楽で、ポリフォニーは鉱物的な密度にまで到達している。その力強さと美しさを完全に表現するためには、手はしばしばやむなく一種の不動のような状態にならざるを得ないが、指に対しては最も優れたタッチ、それぞれの指の独立性、持続性、しなやかさ、そして息遣いが要求されるのだ。すぐにこの練習の有益な効果が感じられてきた。精神が落ち着き、エネルギーが指先にまで、それから全身へと循環していくのだ。音楽とは一種の不動性から生まれる。[・・・]私の中で、内面の力が少しずつ目覚めていった。しばしば運指は、運動機能よりもむしろ精神と関係があるのだということを、あの日、私は実感した。」(173頁)


  収容所での5年間は損失以外の何ものでもなかっただろうが、その5年間がなければシュ・シャオメイというピアニストも存在しなかっただろう。収容所から奇跡的な生還を果たし、彼女は香港へ、その後アメリカへ、さらにはフランスへと亡命していく。しかし、裸一貫で逃げ出した女性に華々しい未来など待っているはずはない。自伝の読者のほとんどはここで、彼女がベビーシッターとして、あるいはピアノの先生として人生を終える結末を予想するはずだ。それほど彼女を取り巻く状況は絶望的だった。しかし、望みがないからこそ、「失ったすべてをピアノが取り戻してくれた」と彼女は言う。
  この人の音楽観は深い哲学的な省察に満ちている。そしてそれらはすべて、彼女のピアニストとしての経歴と同様に、苦難が与えてくれたものだ。多くのピアニストがキャリアのためにコンサートからコンサートへと駆け回っている時に、シュ・シャオメイはひたすらピアノと瞑想を続けている。亡命先で、30歳を越えてもまったく無名のまま、コンサートのためでも録音のためでも何のためでもなく、ひたすら無欲に好きな音楽に打ちこめたおかげで、もっとも多くのものを収穫できた、と彼女は言う。それはまさに老子の言う無用の用、「有の以て利を為すは、無の以て用を為せばなり」、無がなければ有の意味がないという真理を実践したようなものだ。
  1989年、40歳にして彼女は初めてのリサイタルをパリの小さな教会で開く。曲目はもちろん『ゴルトベルク変奏曲』。これがわたしがスイスで聴いたあのライブ演奏だ。まるでこの変奏曲のように、わたしがシュ・シャオメイと過ごした30年間の物語は、円を描いて結ばれる。瞑想的で抑制のきいた演奏でありつつも、芯の強い張りのある演奏は、ライブのときも、最初の40歳の録音も、いま聞く最新盤でも変わらない。偶然見つけた彼女の手のポートレートを見て微笑んでしまった。それは白魚のようなピアニストの指ではなく、まさに重労働に堪えた農民の、節くれだった木の幹のような指だったからだ。
  自伝の原題は『川とその秘密』。冒頭に引用した老子の言葉から来ている。「水は衆人の悪(にく)む所に処(お)る。」そして川はまた、バッハが変奏曲に託した、アリアからアリアへ還る回帰の物語でもある。Bachとはドイツ語で「小川」のことだ。無から来て、無へと還るまでの30の変奏の中で、シュ・シャオメイは生きることの意味を、生を阻むものから体得した。天安門事件からこの6月4日でちょうど29年がたった。あの日、高い志を掲げて立ち上がった友人たちにも、困難な時期を経て、平安が訪れていてくれることを祈りたい。

 

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