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学部と大学院の授業を、演習を中心に紹介します。ゼミ生の卒業論文と修士論文もご覧ください。↓

主な担当授業 | 学部ゼミナール2011 | 学部ゼミナール2012| 学部ゼミナール2013 | 卒業論文 | 修士論文

主な担当授業

2016年

テクスト研究上級 クライストの『ミヒャエル・コールハース』(Michael Kohlhaas)を読みます。クライストは、内面的な繊細さが昂じた病的な自己破壊欲、名誉心と挫折、女との無理心中など、どことなく太宰治を思い出させる作家です。太宰同様、クライストの作品に登場する主人公たちも破滅型人間が多いですが、大きな違いは、彼には軍人の家系で鍛えられた強い義務感と正義観があったということです。そのことは彼の法律への強い関心に現れています。18-19世紀のドイツでは多くの作家が「法学部」出身のインテリで、彼らは「詩人法律家」(Dichterjuristen)と呼ばれました。彼らが創作を通して正義のあり方を問うた作品を多く残したのも、このためです。クライストは法学部の出身ではありませんが、その作品には強い遵法精神が流れています。しかし同時に、彼は人間の暗い無意識に目をむけた作家でもありました。理性では制御できない欲動が人間を突き動かすということをはっきり自覚しながら、同時にプロイセン的な軍人精神に忠実であろうとする葛藤に引き裂かれた作家の、悲劇の名作を読み解きます。
中世ドイツの言語と文化 中高ドイツ語の初歩から中級までを学ぶ授業です。
ドイツ文学特殊研究 Gerhard Funke "Gewohnheit"を講読し、近現代のハビトゥス論を学びます。

2015年

テクスト研究中級 クライストの名作『ミヒャエル・コールハース』(Michael Kohlhaas)を読みました。レクラム版の註釈を参考にしながら、クライストが実在の人物をどのように、ロマン主義特有の荒唐無稽なおどろおどろしさと、ファンタジーの混ざり合った人物に描きだしていったかを考察しました。
中世ドイツの言語と文化 中高ドイツ語の初歩から中級までを学ぶ授業です。後期は『ニーベルンゲンの歌』を読みました。
ドイツ語学文学研究 この授業ではさまざまな時代に書かれた「兄弟姉妹の物語」を読むことで、人間関係の基礎にある愛の原型を探りました。
ドイツ文学特殊研究 Gerhard Funke "Gewohnheit"を講読し、古代のハビトゥス論を学びました。

2014年

ドイツ文化史 ヨーロッパの文学を迫害されたものからのメッセージと捉え、暴力に抗して戦った文学者や思想家の生涯と作品を紹介しながら、正義と理性の意味を考えます。扱う作家は、ダンテ、 メヒティルト・フォン・マクデブルク、 マルグリット・ポレーテ、 マイスター・エックハルト、 パラケルスス、 ヤーコプ・ベーメ、 ガリレオ・ガリレイ、 ゲオルク・ビュヒナー、 ハインリヒ・ハイネ、 トーマス・マン、 ヘルマン・ヘッセ、 ハンナ・アーレント、 エルンスト・トラー、 ベルトルト・ブレヒト、 シュテファン・ツヴァイク。
中世ドイツの言語と文化 中高ドイツ語の初歩から中級までを学ぶ授業です。後期は『ニーベルンゲンの歌』を読みました。
ドイツ語学文学研究 人魚やセイレーンを主人公にする文学を読みながら、水辺の異類が人間世界にどのような反省的な意味をもつのか考えました。
ドイツ文学特殊研究 中世盛期(13世紀)からバロック期(17世紀)までに書かれた幻視文学を読みました。女性神秘家の作品から始め、さらに神智学に大きな影響を与えたヤーコプ・ベーメの著作を精読しました。

2013年

テクスト研究上級 ニーチェの『ツァラトゥストラ』を読む授業です。20世紀の思想史に大きな影響を与えた「超人」、「永劫回帰」、「力への意志」といった概念がどのように形成されたのかを学びました。
中世ドイツの言語と文化 中高ドイツ語の初歩から中級までを学ぶ授業です。
ドイツ文学特殊研究 キリスト教の基礎概念を学ぶ授業です。今年度は「婚姻」と「罪」について学びました。

2012年

ドイツ文学史 ドイツ文学の主要作品を過去から現代に順に解説しました。ゴットフリート『トリスタンとイゾルデ』、マイスター・エックハルト『説教集』、グリンメルスハウゼン『阿呆物語』、レッシング『賢者ナータン』『エミーリア・ガロッティ』、ノヴァーリス『青い花』、ホフマン『砂男』『ファールン鉱山』、アイヒェンドルフ『大理石像』、ヘルダーリン『詩集』、シュティフター『晩夏』『水晶』、シュトルム『みずうみ』、フーケ-『ウンディーネ』、リンゲルナッツ詩集、マン『ヴェニスに死す』『トリスタン』、ヘッセ『春の嵐』『デミアン』『荒野の狼』、ムージル『愛の完成』『特性のない男』、ブレヒト『肝っ玉おっかあと子供たち』などを読みました。
中世ドイツの言語と文化 中高ドイツ語の初歩から中級までを学ぶ授業です。
ドイツ文学特殊研究 Angenendtの"Die Geschichte der Religiositat im Mittelalter"(Darmstadt 2000)を講読しました。古代から中世にいたるヨーロッパ社会で育まれた宗教性を概説的に学ぶことを目的としました。

2011年

テクスト研究中級 映画『善き人のためのソナタ』の台本:Das Leben der anderen. Filmbuch von Florian Henckel von Donnersmarck (Suhrkamp 2007)を読みました。台本のドイツ語を読むことで監督の演出の意図がはっきりしてくるので、映画をよりよく楽しむことができました。また日本語字幕だけでは、原作者・監督の意図が十分伝わっていない箇所もいくつかあり、興味深かったです。
中世ドイツの言語と文化 中高ドイツ語の初歩から中級までを学ぶ授業です。
ドイツ文学特殊研究 Angenendtの"Die Geschichte der Religiositat im Mittelalter"(Darmstadt 2000)を講読しました。

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学部ゼミナール2013

『トリスタンとイゾルデ』と人間の復興

(ゼミ生: 深澤、宮下(寛)、宮下(み)、山崎、荒井、池中、宿野、杉原、丹下、浜近、本間、松濤、森、門馬、菅間)

 2013年のゼミナールでもっとも大きなイベントは、宮城県石巻市にゼミ合宿を張ったことだろう。8月17日から牡鹿半島にある民宿「後山荘(うしろやまそう)」で二泊三日の勉強会を開くことになったのは、表向きは慶應大学の被災地復興祈念プログラムの支援を得ることができたからだが、それ以上に教師も学生も震災後二年半を経ても復興の兆しさえみせない被災地に、何かもどかしい後ろめたさがあったからだ。参加者11人のうち、ボランティアで被災地を訪れたことのあるものは1名のみ、それも卒業生だけだった。被害の現状も知らず、復旧の進み具合も知らず、ただニュースの画面上を流れすぎる映像を眺めるだけで過ぎ去った時間に、重苦しい痛みのようなものを感じていた。意を決して提案してみると、多くのゼミ生たちが参加を希望してくれた。若い人たちの素直な反応がうれしかった。
  仙台市内から石巻までバスで移動し、ガイドの方との待ち合わせ場所に指定されたイオンモールに着いたところまではまったく普通だった。「普通」というのは、そこが被災地だと気づかないほど、明るく賑わっていたということだ。買い物客は多く、店内全体が何かピンク一色だったような記憶がある。だがマイクロバスで海岸の方向へ走ると、一分もたたないうちに景色は一変した。人気の消えた、雑草生い茂るだだっ広い空間がどこまでも続いている。人の営みがさらわれたあとに残った、荒地としか呼びようのない風景だった。ごく当たり前の日常と、ありえない異常さが隣り合って存在していることに唖然とし、言葉も出なかった。(合宿についてはエッセー「瓦礫の港から船を出す」を。)

 石巻のすべての町をおおうこの違和感を、わたしたちは大切にした。なぜなら、勉強会のテーマに「中世の『トリスタン物語』における人間関係」を選んでいたからだ。
  ヨーロッパに広く分布するトリスタン物語はいうまでもなく、ケルト神話の「駆け落ち譚」に由来するが、単なる神話のリライトだけでは読者を満足させることができないことを、中世の作家たちは知っていた。13世紀に書かれたゴットフリート・フォン・シュトラースブルクの『トリスタンとイゾルデ』は、特に都市市民を読者層にもつ市民文学の先駆けなので、元にある神話を新しい価値観のもとに書き換える必要があった。
  それは二人の恋人が犯す反社会的な恋愛の動機づけに現れている。神話では、老いた王に嫁いだ若い妃は「ゲッシュ」と呼ばれる呪文によって若い家臣を誘惑し、駆け落ちする。中世文学はこの呪術的モティーフをそのまま受けいれることに無理を感じ、当時一般に存在が信じられていた「媚薬」を恋愛の動機にすえた。ゴットフリートもこのモティーフに従っているが、同時に主人公の恋人たちが不実の恋に陥る理由を、彼らの人格形成の過程で生じた困難にも求めている。作者は、現代心理学にも比されるような解釈によって、人間の性格が長い時間をかけて気質的に形成され、それが二人の反道徳的な行動の根底にあると考えたのだ。主人公のトリスタンは文武に秀でた英雄である反面、嘘つきで危険な誘惑者でもある。現代風にいえば彼の多重人格と適応障害の原因を、ゴットフリートはトリスタンの幼児期のトラウマにみている。彼が幼くして父母を失い、出生の秘密を隠したまま養父に育てられ、人買い商人に誘拐された後に実の伯父に引きとられるという特異な生い立ちは、彼を状況に応じて最善の人格を演じる奇妙な人間にしてしまったのだ。またイゾルデは同名の母の強い支配のもとに育てられ、そこからの自立に悩んでいた。しかし異国に輿入れし、母の大母的支配から解放されてしまうと、彼女の性格は豹変し、貞淑な妻の座を捨ててしまう。二人を破滅に追い込んだ原因を考える上で、彼らが健全な対人関係を結べるような家庭に育ったのかということを考えてみることが、合宿の課題となった。
  この目的で次の三つのテーマを設定し、作品を分析した。
1.  トリスタンと父親の関係
Ursula Storp: Vater und Sohn. Zum genealogischen Charakter von Literatur und Geschichte, in: H. Brall/ B. Haupt/ U. Kuesters (hrsg.): Personenbeziehungen in der mittelalterlichen Literatur. Düsseldorf 1994, S. 137-162.
2.  イゾルデと母親の関係
Lydia Miklautsch: Mutter-Tochter-Gespräch. Konstituierung von Rollen in Gottfrieds Tristan und Veldekes Eneide und deren Verweigerung bei Neidhart, in: H. Brall/B. Haupt/U. Kuesters (hrsg.): Personenbeziehungen in der mittelalterlichen Literatur. Duesseldorf 1994, S. 89-107.
3.  分裂した自己(分身)の問題
鈴木 健『なめらかな社会とその敵』 勁草書房

  被災地の見学(何という呑気な表現!)や、リクレーション(泳いで潜った!)とハードなスケジュールだったが、わたしたちが中世文学を通して人間関係の破壊と再生について考えたことは、未曾有の災厄に見舞われた町とシンクロナイズするものだった。
  東日本大地震とそれに伴う津波でもっとも深刻に破壊されたのはインフラではなく、人間関係であることを、わたしたちはガイドや民宿の人たちから知った。被災したその瞬間から、人はそれまで築いた繋がりが無効となる無縁世界に投げ出される。それは近親者の死だけではなく、親しくお付き合いしていた友人や隣人が他人以下の存在になり下がるのを目の当たりにすることだ。窃盗、嘘、脅迫、無関心、強欲といったあらゆる悪徳が、生きるためという口実のもとに優先権を得、人の心を傷つけていく。被災地の人たちが真に苦しむのは物の不足ではなく、精神的な貧困,人とのつながりの切断なのだ。それが「絆」という言葉が復興のキーワードとなった理由であることに石巻で気がついた。がれきを片付けるクレーンの無機的な作業音、人気のない通り、生活臭のない仮設住宅の静けさ、こうしたものは津波が人との繋がりをさらった後に残した残骸だ。がれきを片付けるだけでは復興にはならない。不信を越えて、新しい信頼関係の上に新しい人間関係をつくることが、復興の真の課題だということを、わたしたちは石巻で教えられた。ひるがえって中世文学に戻れば、トリスタンは英雄らしくないといわれる。それは彼が宮廷社会が要求する「英雄のアイデンティティー」(勇敢、誠実、忠実)を捨て去って、自分を状況に合わせてつくりかえていくからだ。変装し、裏切り、嘘をつき恋人のもとに通う男は,失くした自分を探して故郷を捨て、新しい人間関係を作ろうとする男でもある。血縁や身分に縛られず、海を越え、別の人生を探す主人公のたくましさは、沈んだ石巻に最も必要なものだという気がした。

 ゼミはもちろん夏以降も続いた。とりわけ集中的に議論したのは、イゾルデが故国を離れて船に乗り、マルケの待つイングランドに向かう船の場面である。ゴットフリートの作品では、トリスタンとイゾルデが幸福について議論し、それに続いて媚薬を口にしてしまう有名な場面である。身寄りもない土地へ一人連れてこられる心細さを訴えるイゾルデを、地位と名誉と夫の権勢だけが女の幸せだといってはばからないトリスタンはまったく理解できない。もちろん伯父の仇であるトリスタンをイゾルデは赦すことはできない。もつれにもつれた負の感情を一気にプラスに転じさせるのが媚薬である。もちろんブランゲーネの「このお飲み物はあなたたちにとって死ですよ!」という言葉通り、媚薬は二人の破滅の始まりであるが、他方でともに幼児性トラウマに苦しんでいたトリスタンとイゾルデを父母の呪縛から解放した霊液と解釈することもできる。社会規範に合わせて自分をつくり続けた二人は、媚薬を飲むことによって自分本来のアイデンティティーを見つけ出したのだ。それはある種の「事故」「思い違い」から生じたという点で、ワーグナーの『トリスタン』とは違う。憎しみと恥辱とかなわぬ想いに堪えかねて毒をあおる楽劇の主人公のように「決意」がないことが、中世のトリスタンとイゾルデをよりリアルな自己変革モデルにしている。
  これに関連して、授業ではまた現代作家のマルティン・グルツィメク(Martin Grzimek)が書いた、『トリスタン 誠と愛と裏切りの物語』( „Tristan. Roman um Treue, Liebe und Verrat“, Hanser Verlag, 2012)の「船上」の場面を読んだ。ワーグナーのように深刻ではなく、あっけらかんと恋に陥っていくトリスタンとイゾルデがかえって好印象だった。

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学部ゼミナール2012

「オルフェウス神話」

(ゼミ生: 菅間、鈴木、美浦、宮本、森井、山根、深澤、宮下(み)、宮下(寛)、山崎、家室)

成果報告

『インセプション』(Ch.ノーラン監督、2010年)という映画がある。夢の中で理想的な世界を作り上げてしまったディカプリオ演じるコグと彼の妻モル。深層意識の何層も下で、現実の何百倍ものスピードで、プログラムしつくした理想の人生を生きるうちに、妻は夢と現実の区別がつかなくなる。現実の夢よりは、夢の現実の方がよりリアルになった妻にとって、現実から覚め、夢の世界へ帰るための唯一の方法は「目を覚ますこと」、すなわち自ら命を絶つことだった。もちろん現実での死は事実で、妻は永遠に夢の住人となるが、良心の呵責にさいなまれたコグは夢の下層世界に降りていき、そこで孤独な妻に再会する。どことなく、A・タルコフスキー監督の『惑星ソラリス』を思い出させる。交信の途絶えた宇宙船の調査にやってきた学者ケルビンは、亡くなった妻ハリーがそこで生きていることを知る。あり得ない事実に呆然としつつも、主人公は妻との再会を喜ぶが、やがて記憶の奥に封印していた、彼女を自殺に追いやった過去を思い出す。惑星を取りまくソラリスの海は異常な磁気によって人間の内面を具現化する。記憶の中のイメージが実体となって現れるのだ。宇宙船の乗員がある者は精神に異常をきたし、発狂し、ある者は自死していったのも、過去の恐怖に堪えきれなかったからだ。『インセプション』も『惑星ソラリス』も早世した妻を悼む男たちの物語であるが、自らに責任はないのに、妻の死に良心の呵責を感じるのはなぜだろう。なぜ彼らには忘却の至福が許されないのだろう。なぜ再会を願うのだろう。その鍵は、ヨーロッパ文学の底流に流れるオルフェウス神話にあるように思える。

オルフェウスといえば、動物や自然も魅了する竪琴の名手として名高いが、彼の名が文学史に刻まれるのは、若くして命を落とした妻エウリディケーを甦らせるため、冥界に下って、その王ハデスに掛けあい、妻を連れ帰ろうとした物語のゆえであろう。日本にはイザナギとイザナミの黄泉比良坂の物語があるが、西欧でもオルフェウスは古代から現代に至るまでさまざまな作家にインスピレーションを与えてきた。「詩神」や「生死を知る賢者」や「愛妻家」という評価から、「女嫌い」「魔術師」とも呼ばれ、さらに中世に入ると、彼の冥府下りがキリストの復活と結びつけられ、死を超越する聖人とも描かれるようになる。ゼミナールではこうした彼の様々な相貌が、文学作品のみならず、音楽や絵画や映画でどのように描かれているのかを見ていった。テクストにはMythos Orpheus. Texte von Vergil bis Ingeborg Bachmann, Stuttgart (Reclam) 2011を、参考資料にはHollen-Fahrten. Geschichte und Aktualität eines Mythos, Markwart Herzog (ed.), Stuttgart 2007使ったが、それ以外にもさまざまな作品を読んだ。主要なテクストは:オヴィディウス『変身物語』、リルケ『オルフェウス.エウリディケー.ヘルメス』、ゲーテ『ファウスト』、ノサック『オルフェウス』、ダンテ『新生』、ノヴァーリス『夜の讃歌』、Th.マン『だまされた女』。

リルケ『オルフェウス.エウリディケー.ヘルメス』

暗黒の世界の中に続く白い一本の線。これが冥界と地上をつなぐ道。今この道を三つの影が進んでいく。先頭を歩くのは青いマントに身をつつんだ痩身の男。長い道と遅い歩みにじれながら、男の神経は二つに引き裂かれる。

「彼の眼差しは犬のように先を駆け、振り返り、もどり、ずっと先までいって、角のところで待っていた。彼の聴覚は匂い香のようにうしろに残っていた。この上り坂をついてきているはずの二人の足音にまで延びていくかのようだった。」

そう、男は焦っていたのだ。はやる気持ちと、連れが背後にいるのかの不安とに。

リルケは古代ギリシアのレリーフに描かれたオルフェウスとエウリディケーとヘルメスの姿にインスピレーションを得て、この詩を作った。それはオルフェウスが不安に駆られて振り返って妻を見てしまった瞬間を描いている。控えめな表情には驚きも失望も悲哀も刻まれていないが、手はもっと多くを語る。オルフェウスの手は空を切り、エウリディケーの右手はそんな彼を慰めるか、または名残りを惜しむかのように夫の肩におかれている。

手が別れを告げるのは、二人が地上にたどり着くまで話すことが許されていなかったからだ。この情景をローマの詩人オヴィディウスはみごとに描いている。

二人は重苦しい沈黙の中を登っていた。急な坂を、影なす靄につつまれた、薄暗い道を。・・・そのとき、もしや疲れてはいまいか不安になり、姿を見たいという気持ちにかられ、愛する男はとうとう振り返って見てしまった。―その瞬間、彼女はするりとすり抜けた。掴んでもらいたい、掴みたい、憐れな女の差し延べた両の手は、しかし空を掴むばかり。はや二度目の死につかなければならない女は、しかし夫に恨み言は言わなかった。恨むことなどあったろうか。こんなにも愛されていたのに。ただひと言「さようなら」と言って、―だがそれも夫の耳には届いたかどうか―、彼女はもといた場所へと沈んでいった。(オヴィディウス『変身物語』第10巻)

レリーフにはエウリディケーの左手をぐいと引く人物も描かれている。神秘的英知ヘルメス学に名を残す神ヘルメスである。生の世界だけではなく、死後の世界の秘密にも通じていた彼は、夫と別れて暗黒の地底を一人帰らなければならないエウリディケ-には必要な従者だった。

「にわかに神が彼女をぐいと引き留めた。痛い叫びが発せられた。「振り向いたぞ。」彼女にはその意味がかからなかった。そして低い声で聞いた。「誰が?」」

「誰が?」――リルケのエウリディケーは残酷だ。はるばる危険を冒して死者の国まで連れ戻しにきてくれた夫のことなどとうに忘れてしまっている。そう、彼女は自分の中に生きているのだ。

「まるで身籠もった女のように、先を行く男のことも、命に続く道のことも頭になかった。彼女は中に籠もっていた。そして死で彼女ははち切れんばかりだった。甘く黒ずんだ果実のように、彼女は大いなる死で満ちていた。それは初めてで、今まで知らないものだった。彼女は新たな少女期にいた。無垢の。彼女の性は、夜の花のように、閉じていた。」

死者の世界で腐敗していたイザナミとは逆に、エウリディケーは死とともに若返り、再び無垢の少女にもどる。それは彼女が死を自分の中に受け入れたからだ。新しい命を身籠もった女のように、彼女は死を身籠もり若返る。これは死者の国のパラドクスのようにも見えるが、リルケは実はこうした妊婦のイメージをパリ時代にすでに『マルテの手記』で温めていた。

世紀末のパリの雰囲気を濃厚に伝える『手記』には、時代のデカダンスに対する強烈なアンチテーゼがある。物語の冒頭でリルケは、若い詩人マルテ・ラウリス・ブリッゲに、都会の底辺で生きる現実を暗い調子で描写させる。クロヴィス王の時代からあるパリの古い市民病院で彼は、個人の尊厳を奪われて大量生産される死の臭いをかぐ。都市の住人は、病院が用意した死をあてがわれるだけで、死が彼がどのように生きたかの証とはならない。では本当の個人の死とはどんなものなのか。

「僕は、昔はこんな具合ではなかったはずだ、と考えるのだ。昔は、果実に核があるように、人間の中に死がある、ということをだれもが知っていた(知っていないまでも、おぼろげに感じてはいた。)子供たちは小さな死を、大人は大きな死を自分の中に持っていた。女たちは子宮の中に、男たちは胸の中に死を宿していた。死を持っている、そのことが人に、独自の気品と静かな誇りを授けていたのだ。」(川村二郎訳)

ほぼ同時期に書かれた散文と詩は同じ死生観に従っている。この世に生を受けるということは、同時に死も受けるということであり、それがすでに子宮の中で用意されているというイメージは、残念ながら私には陰鬱すぎて受け入れがたいが、真理であろう。死とともに生まれたことが人間に気品と誇りを保証することも事実であろう。死者の国で死を充填され、無垢の処女にもどったエウリディケーが、地上の生者の世界に再び帰ることは初めから無理だったのだ。地上と地下の仕切りで隔てられた二つの生と死しか知らなかったオルフェウスには、実は二つとも初めから同じものとして人に宿っていることに気がつかなかった。先頭を一刻の猶予もなく昇っていく若者オルフェウスの後ろ姿は、原初の女にもどったエウリディケーにとってはもはや見知らぬ男の背中だったのだろう。

ゲーテ『ファウスト』第二部

冥府下りをあつかった、古典期の文学でやはり最も完成度の高いものはゲーテの『ファウスト』第二部の「ヘレナの誘惑」のシーンであろう。絶世の美女でありながら、その美貌ゆえに男たちを戦乱に巻き込み、冥界に入ってもなお、何度も地上に呼び戻され、アキレスを初め多くの男たちと契りを結ぶ、言ってみれば古典版ファム・ファタールを甦らせようとする、ファウストの欲望は、若くして命を落とした妻を憐れんで、冥界から連れ帰ろうとするオルフェウスとは、対照的に見えるかもしれない。しかし二人には、歌人という共通点がある。愛する者を死の忘却にゆだねない、ただ一つの方法は、歌なのである。

その昔オルフェウスを通してやったように、アポロン神殿の巫女マントーは、ファウストを冥界の女王ペルセポネのもとへ案内する。「できないことをやろうとする」彼の心意気に惚れてである。過去へとさかのぼっていくファウストと、メフィストにそそのかされて逆に古代から昇ってくるヘレナは、ちょうど中間地点の中世で出会う。太陽のように進んでくるヘレナを見て、千里眼が自慢の塔守りリュンコイスでさえも目が眩んでしまう。彼女の美しさの前には、彼がこれまで見たどんなものも意味を失ってしまったと、かれは歌う。ファウストの城に入ったヘレナはすぐに、先ほどのリュンコイスの口調が変わっていて、妙に心地よい理由をたずねが、これは実は塔守りが中世の恋愛歌謡(ミンネザング)の流儀に則って、脚韻を踏みながら歌っていたからである。この節回しは、押韻を知らないギリシアのヘレナには珍しかった。不思議なメロディーにヘレナの男好きの血が騒ぎはじめる。恋する男女が相聞歌にのせて想いを語ることは、古えの習いであるが、ふたりの二重唱は変わっている。

ファウスト
とてもかんたんです、思う心のままでよいのです。
あこがれが胸いっぱいに満ちあふれたなら
あたりを見まわして、問います―

ヘレナ
どなたと分かちあえるかしら。

ファウスト
いまはもう、振り向きません、前を見るだけ
いまここにある、この時だけが

ヘレナ
ふたりの幸せ。   (小西 悟訳 『ファウスト』第2部 9378-9383)

謎めいた掛け合いが歌うのは、芸術の生む美が時間を現在に凝縮し、過去も未来もない今だけの至福をつくりだすという、ゲーテの主張である。ファウストは永遠の瞬間をヘレナとの愛の中につかもうとする。

彼はヘレナと結婚する。

二人は息子のオイフォリオンを授かるが、一時もじっとしていることのできないほど生命力にあふれた、この子供の成長は著しく、あっという間に青年となり、女を漁り、娘をかどわかし、挙げ句の果てには戦士となって戦場に向かおうとし、イカロスのごとく墜落して落命する。屍となったその子にゲーテは、詩人のバイロンの面影を重ね合わせる。

ゲーテが一連のヘレナとの物語に、詩(ポエジー)の未来を見ていることは明らかであるように思える。冥界からかえっていまだ意識がぼんやりしているヘレナが、ミンネザングの節回しに陶然となったように、彼女の残した「神の召し物」に今度はファウストが陶然とする。

ヘレナ(ファウストに)
「いまさら身につまされて古い諺に思いあたります。
美人薄命と、昔から申しますものね。
命の糸も愛の絆も立たれてしまいました。
涙ながらの二つをあきらめ、つらいお別れに
もう一度お胸にすがらせていただきます。
ペルセポネよ、坊やとわたくしを引きとっておくれ!」(同9939-9944)

ヘレナが消えた後、ポルキュアス(実はメフィスト)はファウストに、残された彼女の衣装を大事にするように言う。なぜならそれは芸術の精神だからである。衣装は溶けて雲になり、ファウストを天に運んでいく。ヘレナは消えたが、彼には「掛けがえない恩寵で上へ昇る」ポエジーが残されたのは、この冥府下りの物語がオルフェウス神話だったことを示している。オルフェウスはたぐいまれな歌によって、妻を失った悲しみを歌い、ハデスとペルセポネの心に訴えて、地上に連れ帰ろうとした。最愛の人を亡者の国から連れだすには歌が必要なのだ。しかし歌人ファウストはこの後再び冥界に降りてヘレナを探そうとはしない。彼を待っていたのは民衆救済のための大きな干拓事業であった。

その他のオルフェウス受容

ノヴァーリスの『夜の讃歌』第5歌はキリスト教と古代宗教の習合(パガニズム)の中に現れるオルフェウスを描いている。聖夜に誕生したイエス・キリストを祝福するために、オルフェウスがオリエントからやって来る。古いギリシアの神々の墓の上に立つキリストは、死者から甦った新しい神であり、新しい世界で脈打つ「新しい心臓」である。ヴィジョンは壮大であるが、ノヴァーリスの構想だけが空回りしているような感じを受けた。

Th.マンの『だまされた女』は現代における奇妙な冥府下りを描いている。突然青春の再来を感じた初老の婦人ロザーリエは、若いアメリカ人家庭教師ケンに熱い思慕を寄せる。娘の恋人くらいの若者に虜になってしまった彼女に、周囲は冷ややかな視線を送るが、彼女は思いを遂げようと躍起になる。ある日遠足に出た二人は、郊外の古城を訪れ、そこの隠し階段を下っていき、結ばれる。暗い地下世界を通ってロザーリエは再び生まれかわったかに見えたが・・・。混沌とした冥府の情景が印象的な、マン最後の短編小説である。

ゼミではまた青少年文学に冥府下りのテーマが多用されることも論じた。冥府下りはSF小説の重要なモチーフである。ジュール・ヴェルヌの『地底旅行』(1864)はその中でももっとも有名な作品であるが、しかしそこで描かれる地底世界は地獄でも死者の国でもなく、人類の歴史のいわばアーカイヴのような存在である。こうした自然科学的な新しい地底のイメージは青少年文学にも大きな影響を与えている。前掲の論文集Hollen-Fahrtenに掲載された論文Markwart Herzog: Von Narnia über Hogwarts und Zamonien nach Fowl Manorでは、『ナルニア物語』『ハリー・ポッター』『ザモニエン(Zamonien)』で、地底世界がおおむね好意的な冒険の場となっていることを見た。またSFではないが、先述のA・タルコフスキーも冥府下りを未来的なヴィジョンのもとにテーマ化していることも見た。

終わりに

『インセプション』で始まったゼミは、ドリス・デーリエ監督の『HANAMI』で締めくくりとなった。デーリエは日本ではあまり知られてはいないが、ドイツでは1985年に撮った映画『MÄNNER』(邦題は『メン~妻の愛人とつき合う法』)で認められ、その後数々の映画賞を受賞している気鋭の女性監督だ。日常の現実に埋没して生きる平凡な主人公が、ふとしたことから別の世界や価値の存在に気づき、生き方を変えようとする物語をユーモアあふれるタッチで描くのがうまい。しかし彼女に関して何より強調すべきは、大変な日本通だということだろう。脱サラしてドイツから日本の禅寺に修行に来る男二人の珍道中を描いた『MON-ZEN』(2000年)や、山古志村を舞台にドイツ人と日本人のロマンスを描いた『漁師と妻』(2005年)とともに、『HANAMI』は日本三部作をなすといえるが、それらの作品に共通するのは、西欧的な価値観を反転させるスプリングボードが日本にあるというメッセージである。欧米化され尽くして、欧米より欧米的な日本しか知らない日本人からみれば、こうした視点はただのエキゾチスムにすぎないように思えるかもしれない。しかしデーリエの目はあくまでも冷静で、一見「啓蒙」され様変わりした日本人の行動様式の裏側に、素朴な優しさや朗らかさや強さが息づいていることを見いだそうとする。これが西欧人の主人公を変えるのであり、同時に日本人の観客も変える。僕たちはデーリエの目を通して、自分たちの別の素顔をみて驚くのだ。

『HANAMI』は小津安二郎の『東京物語』を意識して作られているとされるが、僕には(おそらく監督自身も気づいていないだろうが)オルフェウス神話の現代日本版のように思えてならない。オルフェウスが歌の力で妻を甦らせようとしたように、主人公は「舞踏」を通して地獄で妻に巡りあう。日本という地獄で。

中年の夫婦に相手が「空気」のような存在になるのは仕方ないのかもしれない。それはある種の昇華された愛の形だといえるからだ。その「空気」が自明でないことに気づかせるのが、「病」なのであろう。老年にさしかかる夫婦はいつか、自分もパートナーも限りある命を共有していることに気づき、ともに過ごせる時間の幅を測りはじめるものだ。そのきっかけをつくるのが「体の変調」であったり、「病」であったりする。『HANAMI』の主人公ルーディとその妻トルーディもそうした中年カップルだ。夫の余命がいくばくもないことを知った妻は残された時間を、子供たちと濃密に過ごしたいと願うが、仕事人間だったルーディには「家族」はもはや存在しなかった。二人にはベルリンで生活する娘二人と、東京に赴任中の息子が一人いた。とりわけ妻のトルーディは日本の舞踏に興味をもっていて、旅行を兼ねて息子を訪れたいと願うが、ルーディはとりあわない。しかしルーディが妻の献身的な態度にふれて、少しずつ心を開き、老年夫婦の生き方に気づきはじめたその矢先、妻が急死する。残された夫は、どれほど妻のことを知らなかったかに気づき愕然とする。彼女がなぜ舞踏と日本をそれほど愛したのか知るために、彼は息子の住む日本へと飛ぶ。それは死んだ妻と再会する旅でもあった。

尾道から上京した、小津の老夫婦が東京に翻弄されるように、ドイツの片田舎からやって来た素朴なバイエルン人もソドムのような町に翻弄される。彼はまさに冥府に降ったのだ。地獄のような大都市で、しかし桜だけは美しく咲く。それをルーディは妻に見せたかった。コートの下に隠し着た妻のセータとスカートを、満開の桜の下でひろげて、Das ist fur dichといって見せてやる姿は、妻の願いをかなえてやれなかった夫の懺悔でもある。

失ったものを悼む気持ちは、やがて取り残された寂寥感へと変わる。しかし哀悼が哀悼のまま残り、寂寥が寂寥しか生まないのなら、死者の死は意味をもたない。なくしたものが意味をもつのは、それが私の視界から消えてもなお、私に注がれる視線はあると実感し、その視線の元に目をこらすときであろう。死者と生者の間で交わされる目配せこそ、芸術である。オルフェウスの歌は死者を半分だけ地上に連れ帰り、半分だけ冥界に送り返す。ルーディが富士山を背景に踊る舞踏も最愛の妻を呼び出す、重要な儀式である。生と死の間を行き来する彼らの歌は、呵責でもあるが至福でもある。喪失は、歌が交わされる瞬間、豊かに甦る。

死と再生を歌った現代の詩を最後に紹介する。

戦後のオーストリア文学界を牽引し、若干47歳で事故死した女性作家インゲボルク・バッハマンの詩『暗い言葉を歌う』(Dunkles zu sagen)。

暗い言葉を歌う
インゲボルク・バッハマン

オルフェウスのようにわたしは
いのちの琴線で死を奏でる
地上はこんなに美しいのに
天を統べるあなたの目はこんなに美しいのに
わたしはただ暗い言葉しか歌えない

忘れないで、あなたも突然
あの朝、寝床が
露でまだ濡れていて、なでしこが
あなたの胸で眠っていたとき、
暗い河が足もとを
流れるのを見たことを

血だらけの世界にぴんと張った
歌わない琴線
わたしはあなたの響く心臓をにぎりしめた
あなたの巻き毛が
夜の影の髪にかわり
黒い雪がひとひら、またひとひら
あなたの面差しを埋めていった

そしてわたしはあなたと別れた
いまふたりとも後悔することを知った

しかし、オルフェウスのようにわたしは
死の世界でいのちを知った
わたしの夜に明けていく
あなたの永遠に閉じた目

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学部ゼミナール2011

「海をわたる恋人」

(ゼミ生:赤地、井上、友田、永田、森井、横田、吉崎、厚見、管間、鈴木、橋本、美浦、宮本、山根)

ずいぶん前になるが、『マリリンに逢いたい』という映画のことをきいて驚いた記憶がある。沖縄の離島に住む雄犬シロが、3キロ離れた島の雌犬マリリンに会うため海を泳いでわたったという実話を映画化したものだが、泳げないのに加えて、そんな情熱もない僕には、犬の執念がそら恐ろしく感じられた。それとともに、愛の成就のためには命も投げ出さなければならないという、雄の悲しい運命をみたようで、美談に素直に感動できなかった。タイタニック号の事故で、こっそり救命ボートに跳び乗ったおかげで、救助後「卑怯者」「恥知らず」の烙印を押され、一生世間の非難にさらされた男たちと、それとは対照的に、船と運命をともにしたおかげで、後世まで英雄として語り継がれる男の差もこのあたりにあるか。九死に一生を得て罵倒されるのは悲しい。そう、男とは「私の生きがいは長生きです」などと口が裂けても言えず、決然と氷海に飛び込むことを期待された、悲しいヒーローなのだ。

「海をわたる恋人」という主題では、オヴィディウスが『名婦の書簡』の中に記した、ヘーローとレアンダーの相聞歌が有名だ。ヘレスポント海峡(現在のダーダネルス海峡)をはさんだ二つの都市、アビドゥスとゼストゥスにそれぞれ住むレアンダーとヘーローはいつしか恋仲となる。二人の関係は人に気づかれてはならないものだった。それゆえレアンダーはヘーローとの逢瀬のために、人目を避けて夜な夜な海峡を泳いで渡るしかなかった。真っ暗な闇の海を、彼はヘーローがかかげた灯りだけを頼りに渡っていったのである。あるとき海が荒れて、何日もレアンダーが海峡を渡れない日が続いた。ヘーローは焦れる。対岸へ渡る漁師に託した手紙で、彼女は優柔不断な恋人をなじる。「殿方は、狩りに出たり、心地よい畑を耕したりと、さまざまなことで気晴らしをなさいます。・・・それに比べて、そんなこととは縁遠い私は、さして気が向かなくとも、人に恋して時を過ごすしかありません。それが私にただ一つ残されたもの。ああ、ただ一人の方、報われることが少なくとも、ひたすらあなたを愛しています。」こうしてヘーローは恋人の来訪を促すために毎夜灯火をかかげるが、これを見て、レアンダーは自分の臆病さに恥じ入るしかない。手紙は続く。「どうして私がこんなにも長い夜を一人で、人肌恋しく過ごさなければならないのでしょう。臆病者ですかあなたは?どうして私からそんなに離れていられるの?海が泳ぐにはまだ早いということは、認めましょう。でも昨日は風がずっと凪いでいたのに、なぜそれを無駄にしたのですか。いつまでおびえて、来ないつもりですか。」愛情が薄れたのではないか、それどころか、嵐を口実に他の女と遊んでいるのではないかとまで言われてはもう黙ってはいられない。オヴィディウスの書簡はレアンダーの悲劇については語っていないが、彼が恋人のこの手紙に急かされて、荒れる海に飛び込んだことは言うまでもない。

オヴィディウスが最後まで書かずとも、結末が読者には自明だったのは、すでに彼以前にこの物語の原型は知られていたからだ。しかしやはりこの往復書簡によって、ただの「お話」に過ぎなかったものは「世界文学」となった。荒れる海を描く修辞表現の重奏は読み手に否が応でも不安を掻きたてる。オヴィディウスの成功に刺激され、後代の作家たちは競ってこの物語を改作した。詳しくは、受容史を研究した、トーマス・ゲルトナー「誰が火を消したのか?ヘーローとレアンダー伝説の、中世、ルネサンス期および近代における受容」(Thomas Gaertner: Wer loescht das Feuer? Zur Rezeption der Hero-und-Leander-Sage in Mittelalter, Renaissance und Neuzeit, in: Orbis Litterarum 64 (2009), 263-282.)を参照していただきたいが、彼の研究は奇妙なことに、『ラスベルク・リーダーザール写本』(15世紀初めコンスタンツ)に採られている作者未詳の中高ドイツ語の物語にはまったく言及していない。この作品はおそらく14世紀初めに,ラテン語に堪能な作者がオヴィディウスを参考にしながら書いたものだが、大きな相違は、書簡ではなく、物語だという点である。恋人たちを襲う悲劇は、超越的な作者の視点から俯瞰されているので、レアンダーの死も,彼の心理的葛藤も、さらには教訓も、それどころか作家自身の個人的な女性観にも言及されている。この作家なかなかの力量の持ち主で、二人の心理描写には迫力がある。絶体絶命のレアンダーは次のように描かれる。「レアンダーの疲労は苦痛にかわり、手も足も麻痺して、とうとう泳げなくなってしまった。悲しげに彼は叫んだ。『ああ、ヘーロー、君をもう見ることもかなわないのだ。僕は死ぬんだ。でも死ぬことなんか辛くはない。辛いのは、僕たちがもう会えないことだ。最愛の人ヘーロー、君の美しい姿を二度と見ることができないなんて。この荒れた海にずっととどまらないといけないなんて。君を身なし児にしてしまうことが、何より辛いんだ。』」レアンダーの死の報を受けとったヘーローも悲しみのあまりすぐに息絶える。作者はしかしこのお話を美談とは考えていない。「悲劇はさておき、あなたたちに言っておきたいことがある。身持ちをしっかりして、激情(tumber muot)に身をまかせ、身の破滅とならないように。・・・あなたたちを死へと誘い、命を捨てさせ、けっきょく喜びもなくさせてしまうような愛に気をつけなさい。というのも幸福とは、よいことが起こる希望なのだから。幸せを手に入れたなら、ずっともち続けなければならない。あの二人には愛は重荷だったのだ。」

日本にも興味深いヘーローとレアンダーのお話がある。『赤い蝋燭と人魚』で有名な小川未明が主幹となって編集した雑誌『北方文学』第二号に次のような物語が載っている。越後高田出身の未明が地元の民話の投稿を呼びかけたもので、潟町に伝わる人魚塚の伝説である。全文引用する。

「昔、佐渡の女と越後の男と恋し合った。

佐渡の女は越後の男をどうしても想ひ忘れることが出来ずに、太陽が西の海に落ちると人知れず盥(たらい)に乗って、両の手に水を掻いて沖に出た。そして男の住んでゐる潟町の磯明神の常夜燈を目標に、四十五里の波を泳いで通って来た。女は遠い波路をはるばる通って来ても、直ぐ鶏が鳴いて、東が白みかけるので、おしい後朝の別れに後ろ髪を引かるる思ひし乍ら、明日の晩を契って再び佐渡に帰っていく―斯うした儚ない逢瀬をも、女には忘られない嬉しさであった。女はかかさず毎夜、盥の船で海を渡って男の許へ通ひつめてきた。

越後の男は初の内こそ此可憐の心を嬉しく思ったけれど、段々と女が一夜も欠かさず波の四十五里を通ひ詰めて来る、強い執念心が何だか空怖ろしく感ずるようになり、しっこい心根を嫌うやうになって来た。女の情が高まるに連れ、男の心は次第々々に外れて行って、女の手から逃れやうと考へ始めた。

遂に男はある夜の真夜中に、佐渡の女が沖へ出た頃を見計らって磯明神の常夜燈の灯を、コッソリと、大罪を犯す時の心持を抱いて吹き消した

女は男の国へ通ふ唯一の標的とする常夜燈がプッツリと消えた時には、自分の命を消されたやうに歎き哀しんだことであらう。あやにく此夜は星屑一つ見えぬ一面の闇の空、闇の海、ただどうどうと波の音は次第に高く成って、一波一波は孕むやうに膨らんで行った。

翌朝忘れた様に海は凪ぎ、風は消え、波は静まり、昨晩のことは嘘のやうに晴れ上がった。

ただ一つ不思議なのは、女の死骸が、磯明神の傍の砂の上に、波に打ちあげられてゐた。死体の下腹には人魚のやうに、細かな美しい赤と銀の鱗が生えて居て、美はしい顔はうらめし気に真珠の歯を食ひしばって、長き緑の髪は藻のやうに乱れ乱れて居た。

磯明神の人魚塚は、此あはれな佐渡の乙女の屍体を埋めたところであるといふ。ひねくれた数株の松は、波がしらの上に紫色にかすむ佐渡の孤島の方へ枝を靡かせて居る。そして小さな風が松の細かい葉に当ると、波の囁きに応へあって、此不思議な物語を話し合って居る。」

R・H生という匿名の人物によって投稿されたこの話は、ヨーロッパ古典文学の裏返しバージョンである。四十五里(180キロ!?)を盥を漕いでやってくる佐渡の女と、優柔不断な越後の男はいかにも日本的で、男性に強さを要求する西欧的な男女観と対照をなしている。だがもっと興味深いのは、灯を消す動機だ。先ほど紹介したクレーマーの論文の表題にもなっているように、目印の灯を消したのは誰かをめぐって、古今の物語はさまざまな展開を示す。嵐が吹き消したのであれば悲劇であるが、オーストリアの作家グリルパルツァーは『海の波 恋の波』で、レアンダーをよく思わない神官に灯を吹き消させた。そこに人為があったとするのが散文的であるのなら、この潟町の伝説も一級の物語となっている。

女のエゴも男のエゴも、家系も血筋も世間体も入り乱れた悲恋の物語だが、ハッピーエンドになった例もある。ドイツロマン派の作曲家ローベルト・シューマンに『夜に』(In der Nacht)と題されたピアノの小曲がある。『幻想小曲集』(作品12)の第5曲にはいった作品は、ヘーローとレアンダーの物語をイメージして書かれたといわれる。実際、繰り返し襲ってくる波頭を思わせる左手の伴奏をかいくぐるように、リズムの違う主旋律が渡っていく曲はレアンダーの命がけの冒険を彷彿とさせる。曲調は暗いが、力強い。この曲を作曲した時シューマン27歳。恩師の娘クララ・ヴィークに熱い想いを寄せ、プロボーズしていたが、父親の同意を得られず、恋人に会えない苦しい時間を作曲で紛らわせていた。『夜に』はそんな彼の想いがこめられている。彼は1838年4月12日のクララへの手紙で、この曲がヘーローとレアンダーの物語を表現していることを記して、彼女に、「このイメージを理解してもらえますか」と問いかけている。つまりこの曲は熱烈なラブレターでもあるのだ。晩年引退リサイタルでこの小曲集にはいった『飛翔』を弾いているくらいだから、クララもこの小曲集には特別の思い入れがあったのだろう。「激情的に」という指示のついたこの曲は、二人を隔てる闇を泳ぎ切ろうという若いシューマンの心意気だが、彼はこの話が悲劇に終わることも知っていたのだろうか。

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卒業論文

2007年

片山由有子 中世ヨーロッパにおける貧民救済
川上紘子 昔話や伝説をもとにゲルマン人の動物観を探る
渡辺絢子 スイス ― 『多様性』という名のアイデンティティー

2008年

石井詩織 ドイツ文学としての『灰かぶり』
佐藤奈々 ドイツにおける犬事情と動物保護

2009年

垣見志穂 港湾都市ハンブルクとドイツ海運事情
北川慎也 トリスタン物語の解釈の変遷
宮崎典子 『ニーベルンゲンの歌』とナチスドイツ

2010年

大島慶子 ゲーテ『ライネケ・フックス』に見られるピカレスク小説としての特徴
須貝有紗 復讐の文学
中林 練 ヤーコプ・ベーメの神秘思想の位置づけへの手がかり ~ グノーシス主義にまつわる思想、プロテスタント的神秘思想とのベーメの関わりから

2011年

赤地則人 ハンス・ベルメール ~ 視線を排除された人形と自我の在処
井上由衣 ホーフマンスタール『チャンドス卿の手紙』、その周縁
永田 萌 リヒャルト・ワーグナー《タンホイザー》における現代的演出の可能性 ―女性と救済の描き方―
横田麻佑美 1970年代の西ドイツの家族像と文化 ―ドラマEin Herz und Eine Seeleの分析
吉崎真衣 カフカ「審判」における権力と自己
山田 愛 再建された《ロマン的》ドイツ ―近代ドイツ文学における中世受容の過程とその意義

2012年

美浦紗紀 ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』とカフカの『訴訟』の比較 ―彼らが描こうとしたものとは―
森井絢実 歓喜力行団 ―組織された背景・成果とその限界―
山根彩子 日本の中学校教育におけるヘッセ作『少年の日の思い出』の受容
山口ひとみ 『朗読者』における罪についての考察 ―過去の克服とは―

2013年

宮下みなみ 『特性のない男』における〈開かれた愛〉と生きる意志としての暴力

2014年

荒井美名 『ドイツ伝説集』に暮らす取り替え子 ―アイルランドとドイツの取り替え子譚の変遷について―
本間沙織 『香水 ある人殺しの物語』における匂いの考察 ―他者理解・自己理解のための匂い―
相澤さおり 初期新高ドイツ語エグゼンプラ集『冗談とまじめ』の物語類型

2015年

庄司有希 ウロボロスと蛇 ―蛇信仰のルーツを探る
西村百合絵 デュレンマット ―物語における真実の「露呈」が果たす役割とその正体について―
小間奈々子 マルガ・フォン・エッツドルフ 記録飛行に挑戦した黎明期のドイツ人女性パイロット
宿野礼菜 イェレミアス・ゴットヘルフの『黒い蜘蛛』 ―変身の意味と作中に見られる司牧術―
門馬亜理沙 怪奇幻想小説における主観性と客観性 ―ポリフォニックな語りとロマン的イロニー
川合正紀 マックス・フリッシュ『ホモ・ファーバー』考 ―科学技術的精神に潜む責任意識の曖昧さ―
島村明美 歌の翼に乗せたハイネの幻想と現実
前澤朋子 ヘルマン・ヘッセの職人観にみる自律と共生 ―ドイツ地域力の考察

2016年

逢澤 梢 魔女裁判とジェンダー
高橋 雅 想像力を養う「読み聞かせ」―その可能性を探る―
根本実季 モモはなぜなにもしないのか
山﨑 希 ゴシック小説としてのE.T.A.ホフマン作『くるみわりとネズミの王さま』
石井裕三子 ゲルトルート・フォン・ル・フォールの宗教的思想による世界平和と幸福の実現
亜弓・フォン・ボルケ 「魔女」シドニア・フォン・ボルケのイメージに関する考察

2017年

石井彩葉 グリム童話における高尚と低俗 ―挿絵とイメージの分析
坂本 和 リースベト、あるいは自然の力 ―『ミヒャエル・コールハース』に現れる女性像
中島友紀 無理解と恐怖心 ―双方向的視点で捉える難民問題
八尾奈々子 Bildungsromanとしての『少女革命ウテナ』 ―ヘルマン・ヘッセ『デミアン』との比較を中心に

2018年

菅沼剛樹 『グードルーン』の受容史 -19世紀における評価について-
村上千遥 正義論の立場から読むゲオルグ・ビューヒナー『ダントンの死』 -存在が滅びを招く時-
三浦元吾 偶然の家族 -クライスト『拾い子』について-
伊藤 孔 近世ドイツの神秘思想家ヤーコプ・ベーメの著作にあらわれたペストの表象

2019年

田中 寛 『ニーベルンゲンの歌』後編における「ねじれ」の構成 —理想の宮廷世界から見る古代ゲルマン世界と現実の宮廷世界への批判
寉田健吾 トリスタン物語におけるイゾルデの名前の二重性について —ゴットフリート、アイルハルト、トマ—
平井香穂 ゲオルク・フォルスター『世界周航記』について —彼の未開・文明認識を探る—

 

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修士論文

2009年

片山由有子 中世女性神秘家マルガレータ・エーブナーの『啓示』における「苦しみ」と「慰め」について

2011年

宮崎典子 境界をさまよう異人たち : 中世英雄叙事詩『ニーベルンゲンの歌』における客人歓待

2012年

中林 練 ゴットフリート・フォン・シュトラースブルクの『トリスタン』におけるミンネ ―救済と浄化の夢幻的な場としての「愛の洞窟」―

2013年

山田 愛 ディートリヒ・フォン・ベルンをめぐる物語と真実 ―冒険譚的叙事詩『フィルギナル』を中心に―

2015年

宮下みなみ Gestaltpsychologie und Robert Musils Vereinigungen

2018年

門馬亜理沙 E.T.A. ホフマンの『廃屋』におけるセンセーショナルなもの-覗きが幻視に変わる時-

2019年

亜弓・フォン・ボルケ マインホルト作『修道院の魔女』とシドニア伝説

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