Ich bin steindumm

2013/09/02 深尾葉子『魂の脱植民地化とは何か』を読む

面と向かって「正義漢」と呼ばれるのは面はゆいが、実は内心そう呼ばれたくてたまらない人はたくさんいる。彼らは社会の秩序の守護者だという自負を密かに振りかざし、さりげない言葉尻にそのことを覗かせて、凡庸な(と、彼らが考える)人たちに武勇伝を語る。「人道的」とか「教育上」というフレーズが彼らのお気に入りだ。しかし彼らに共通するのは、彼らの錦の御旗がただの幟(のぼり)に過ぎず、彼らの言動も行動もそれにはまったく伴っていないということだ。もちろん、そのことに本人はまったく気づいてもいない。
 深尾葉子さんの『魂の脱植民地化とは何か』(青灯社 2012年)が描くのは、そんな正義漢たちのこわばった表情だ。現実を単純に正義と悪に切り分ける人間は、自分の生きる現実と自らの内面に、折り合いのつかない矛盾があるということに目をつむり、かわりに造り物の「正常さの外観」にするりと逃げ込んでしまう。やがて彼らは自分がかぶった正義や正常さの仮面に自我を乗っ取られ、仮面にふさわしく行動し、思考し、感じていることを他者に納得してもらうことを使命と感じ始める。アルノ・グリューンを引用しながら深尾さんは、こうした人間が最も危険で根が深い精神異常者であることを論じる。「根が深い」のは病気の自覚がないからであり、「危険」なのは彼らが自分の正義を自己陶酔的に暴力で他者に強制しようとするからだ。「「邪悪な人間」というのは、本来の魂のありようを隠蔽し、自分でも気づかないように入念に装っている人格を指す。自分自身を裏切っている人々は、他者に対して極度に支配的であったり、破壊的な振る舞いをするだけでなく、その精神のありようそのものが、他の魂にとって破壊的なメッセージを発している」(34頁)のである。彼らの精神の基部には、他者に認めてもらいたいという強い認知欲求があるが、それは隠蔽している自己欺瞞の発する不安の叫びである。支配しようとする正義漢は実は劣等感に支配された植民地人であり、彼らは自分の劣等性を隠すために外装性自己をつくりだして、他人を支配しようとするのだ。深尾さんはこれを「蓋」と呼ぶ。
 正義漢とは臭い自分に蓋をして、無味無臭であることを気取る正常人のことであるが、彼らが攻撃するのは、まさに蓋ができず、強い体臭を放っている人たちである。彼らはおおむね異常者とか反社会者というレッテルを貼られているが、本当は外界と内面のきしみに真摯に向きあっている正直者である。本当の異常者とは、感情を失い、模範的人格を完璧に真似ることのできる、反応機械と化した人間たちのほうであろう。
 深尾さんの本は、彼女自身が子供時代から周囲の期待に過剰に適用しようと努力し続けた結果、魂を呪縛されてしまい、長く苦しんだ経験から書かれている。他者の植民地となった魂を解放するため深尾さんがする提案は、わたしたちの社会に欠けているものが何かを思い出させてくれる。引用する。
1. 我々が求めるのは、魂の抑圧や、監督による社会秩序ではなく、創発にもとづいた自由な魂による社会である。
2. それを実現するために、我々は、動的な秩序を模索する。
3. 魂の自由は、「呪縛」からの解放によってのみ獲得されうる。
4. 日常のコミュニケーションの中で、不可避的に押し寄せてくる支配や呪縛の罠を払いのけ、自己欺瞞によらない生を実現することが魂の脱植民地化過程である。
5. 自らの植民地性を払拭する努力を続けることで、「自主」「自立」「自発」にもとづく社会を構築する。そのような社会を我々は「自豪」(自ら誇りに思う)する。(57頁)
 正義漢の振りかざす「独りよがりの正義」(petty justice)が支配する社会は息苦しい。深尾さんの提案にある「創発」「自豪」という言葉は、そうした窒息しそうな社会の風通しを少しよくしてくれる気がする。

2013/09/05 瓦礫の港から船を出す

 牡鹿半島の海岸線をなぞるようにわたしたちを乗せたマイクロバスはくねくねと石巻市を目指して進んだ。8月17日から半島の給分浜にある民宿「後山荘(うしろやまそう)」での二泊三日のゼミ合宿をおこなった。車窓の風景を見ながら、この三日の旅で見たものに思いをはせた。被災地に生きる人たちは、幸運にも生き残った人たちであるが、不運にも命を落とした人たちと今もこれからも背中合わせに生きなければならない。被災して家も船も失った漁師の方の、「これまでは生きるのに精一杯だったが、それが一段落ついた今、今度は将来への不安でいたたまれなくなる」という言葉はずしんと胸に響いた。一瞬にしてすべてを奪われた被災地の人たちは、生き残ったことの痛みと闘いながら生きなければならない。それは喪失や破壊を人生の一部としてしか知らないわたしのような人間には理解できない痛みだ。今あらためて津波に呑まれる石巻をとらえた写真を見てみる。濁流、砕ける波、呑まれる車、崩れる家、沈む家財、押し寄せる流木、――画面すべてが同時に破壊され尽くしている。それは地震や火事や雪崩のような時間を追った緩慢な崩壊ではなく、すべてが瞬時に破砕している図だ。ここに生きる人たちは、一瞬にして失ったすべてを一つ一つ拾い集めていかなければならないのだ。気の遠くなるような努力を重ねて。

 バスがまもなく半島を出ようかというとき、突然「史跡 月浦 支倉常長ローマへ出帆の地」という看板が車窓をよぎった。1613年、仙台藩主伊達政宗の命を受け、ガレオン船サン・ファン・バウチスタ号に乗って、太平洋を渡りメキシコにいたり、さらに大西洋を渡ってスペイン、ローマにまで旅した「慶長遣欧使節団」はここ石巻市月浦から出帆したのだ。(ただし月浦は現在の石巻市雄勝(おがつ)町だという説もある。)180人を超える大旅団の長となったのが仙台藩士支倉六右衛門長経(通称常長)だった。彼の生涯については、大泉光一さんのすぐれた研究『支倉常長 慶長遣欧使節の悲劇』(中公新書 1999年)に詳しい。以下、同書にそって記述する。六右衛門は今でこそ歴史の教科書にも登場する有名人だが、当時は何の取り柄もない600石取りの中級藩士だった。その常長を政宗が大使に抜擢した理由は定かでない。当時東北で宣教活動をしていたアンジェリスというイエズス会士も、あまり重要でない家来の常長がなぜローマへ派遣されるのか訝しがっている。その書簡によると、常長の父は数ヶ月前に盗みの罪で切腹させられており、彼自身も知行を召し上げて追放される予定であったが、政宗の一存でローマ行きが決まったとされている。アンジェリスはその理由を、「スペインおよびローマまでの渡航の苦痛を味わうことで減刑するほうがよいと判断した」(大泉33頁)からだとしている。つまり途中で客死しても構わない人物だから選んだというわけである。しかしそれは事実ではあるまい。家康の命を受けて政宗は500トンもの帆船をたった45日の突貫工事で造り上げる。その長にどうでもよい人物が選ばれたはずはない。しかし藩の威信と、将軍への忠誠をかけた大事業であっても、藩の重臣をあてるわけにはいかなかった。キリスト教が関わっていたからである。
 常長がスペインでキリスト教に改宗したことはよく知られているが、彼だけでなく多くの日本人がスペインやローマで洗礼を受け、その中にはそのままヨーロッパに永住したものもいる。(それについては、太田尚樹さんの興味深い研究がある。『支倉常長遣欧使節もうひとつの遺産』(山川出版)。)180人余の船客の中にはもちろん敬虔な外国人修道士たちもいたが、それにもまして多くの敬虔な邦人の受洗志願者がいたのではないだろうか。彼らが海を渡って一歩でもイエスのそばに近づきたいと願ったことには理由がある。日本では折りしも耶蘇教禁令が出され、キリシタンへの弾圧が本格的になっていたからである。常長がそうした志願者の一人だったかどうかはわからないが、キリスト教に理解を示さない人物が航海の指揮を執れたはずはない。船は、外国貿易で雄藩に躍り出ようとする役人と商人と、駆け込み寺ならぬ駆け込み船に乗って安住楽土を目指すクリスチャンと、怪しげな宣教師を乗せて1613年10月28日出帆する。今からちょうど400年前のことである。
 2013年は慶長遣欧使節の記念年であるが、石巻市も仙台市もなぜか盛り上がりに欠ける気がする。震災の喪いまだ明けずという雰囲気のもとでは、やむを得ないのかもしれないが、実は常長たちも晴れやかさとは程遠い雰囲気のなかで船出したのだ。その二年前の慶長十六年(1611年)大地震と大津波が三陸海岸を襲い、多くの死者を出し、村々は壊滅的打撃を被っていたからである。慶長三陸津波は東日本大震災からちょうど400年前東北地方を襲った。大沢慶尋さんの詳しい報告によれば、当時スペイン政府の答礼大使として来日していたセバスチャン・ビスカイノは、日本近海にあるといわれていた「金銀島」を密かに探索していたが、1611年12月2日(金)午後5時頃三陸沖で激しい揺れと大波に遭う。 http://blogs.dion.ne.jp/honmarukaikan/archives/10071959.html 彼らが帰港すると、村々は三度押し寄せた津波で壊滅し、家は流され、多くの溺死者が出ていた。死者は仙台藩だけでも5000人にのぼったとされる。これが藩を震撼させたことは、藩主政宗が即座に上京して、家康と秀忠に被害報告をしていることにも表れている。それにはもちろん人的・物質的被害を中央政府に訴え、援助を求める意図もあったであろうが、ビスカイノを始めスペイン国王から派遣されている多くの商人たちとの通商をこの機会に認めてもらい、藩の財政を建て直す意図もあったはずだ。先のサン・ファン・バウチスタ号の建造も、生活の資を失った領民への公共事業としてみれば納得がいく。大使ビスカイノにみせる、宴席で異国人に酌をしてまわり、十字架に接吻し、刀を交換してはしゃいでみせる伊達政宗は、独眼竜のイメージとはかけ離れているが、これは接待のパフォーマンスなのあろう。領主だけではなく営業マンとしても彼は一流だったのである。
 支倉常長のヨーロッパ派遣にはこうした背景があった。月浦であれ、雄勝港であれ、彼は瓦礫の横たわる港から、復興を期して出帆したはずである。彼の通商交渉はしかし実らなかった。徳川幕府が徹底したキリシタン弾圧に踏み切ったことを知ったスペインにとって、日本との貿易は非現実的なものとなったからである。一種の風評被害というところか。そして、七年の歳月をかけて帰国した常長も、即座に蟄居を命じられる。政宗が常長の帰国直後に領内に厳しいキリシタン禁教令を発したことは有名である。遣欧使節の団長自身が改宗して帰国することを彼はすでに知っており、幕府の手前先手を打ったのだろう。命令には「棄教しなければ、知行取り(つまり武士)は追放」とある。常長がそれに従ったかどうかはわからない。確かなことは、彼の渡欧報告は残されず、その二年後彼が没したということだけである。唯一残る記録は、「六右衛門物語ノ趣、奇怪最多シ」という言葉だけである。
ishinomaki   故郷復興を賭けて西欧に船出したものの、夢かなわず帰国し不遇のうちに亡くなった武士の生涯は一見報われないようにも見えるが、奥南蛮(ヨーロッパ)での七年は六右衛門にとっては忘れがたい日々だったろう。旅の間中、彼が故郷の家族を案じていた様子は、今も手紙からうかがえる。彼が再び見た故郷にはすでに復興の兆しがあったのだろうか。

 わたしたちがいた給分浜の船着き場は地盤沈下で水没し、港は二年半たっても瓦礫置き場のままだった。わたしたちの泊まった「後山荘」も実は津波に流され、高台に再建オープンしたばかりだった。女将さんはこれからの生活を明るく語った。漁師もやがて新しい船を手に入れて、ふたたび漁に出る。牡蠣の養殖場も再建された。浜から坂道をずっと登っていくと、国の重文「十一面観音像」を所蔵する持福院があった。鎌倉時代の作とされる観音像は中世からずっと津波の届かない高台で、人々の暮らしを見守ってきた。先人が登ったところまで、もう一度登りきればよいのだ。

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