2014/02/28 愛国的変節
ファシズムと闘ったエリアス・カネッティが高く評価し、個人的に親交もあった歴史学者にヴェロニカ・ウェッジウッドがいる。彼女の『ドイツ三十年戦争』はこの史実について書かれた最も優れた研究である。そこで彼女は、この宗教戦争を動かした政治的メカニズムや諸国の権謀術数の精巧な分析だけではなく、殺し、殺され、焼き、焼かれる修羅場に生身の人間が巻き込まれていく様子を、まるで実見したかのような生き生きとした筆致で描いている。この本を読んでいると、歴史書の域を超えて、まるでドキュメンタリーを読んでいるかのような錯覚に陥る。そしてそこから、ハプスブルク家の野望も、ブルボン家の焦燥も、スウェーデンの征服欲も単なる史実ではなく、わたしたちの国家がもっている覇権主義のプロトタイプであり、傭兵の無慈悲と無軌道も過去の人間の獣性がなした業ではなく、その攻撃性を近代国家がいまも受け継いでいるということがありありと感じられるのだ。
驚くべきは、この大著をウェッジウッドは1938年、28歳の時に書いたということだ。時はまさに第二次世界大戦勃発前夜、ヒトラーが総統になり、ドイツが再軍備を宣言しラインラントに進駐し、日独伊三国防共協定が結ばれ、スペインではフランコが独裁制を敷き、ウェッジウッドの故国イギリスではチェンバレン内閣が発足したものの、ミュンヘン会議でヒトラーに大幅な譲歩をせざるを得ず、ヨーロッパが一気にファシズムに呑まれていった時代である。それゆえこの時期にドイツ史におけるもっとも悲惨な30年を描くことに、彼女は歴史家の使命といったものを感じたのかもしれない。「戦争は、いかなる問題も解決しなかった。その結末は、直接的、間接的を問わず、否定的なものであり、悲惨なものであった。道徳的には秩序転覆的、経済的には破壊的、社会的には品性喪失的、その結果においては無益、そうした点において、この戦争は、ヨーロッパ史のなかで、飛び抜けて無意味な紛争の典型であろう。ヨーロッパの圧倒的多数、ドイツのなかの圧倒的多数は、戦争を欲しなかった。力なく、声をもたない彼らには、戦争をすることについて、彼らを説得する必要はなかった。決定は、彼らの意向なしに、下されたのである。しかし、次から次へと紛争に引きずり込まれていった人々のなかで、少数の人だけが無責任な態度であったのに対し、ほとんどすべての人は、心から、究極的な、良き平和を希求していた。[・・・]彼らは、平和を欲し、それを確保しようとして、三〇年間、戦ったのである。その際、彼らは、戦争が戦争を養う、ということを学ばず、それ以後も、学んでいない」(瀬原義生訳、刀水書房 2003年、569頁以下)と彼女は大著を結ぶ。三十年戦争が当初の原因である、カトリック対プロテスタントの宗教戦争の構図からはずれ、単なる王家や諸侯の権力闘争になっていったことは周知の通りであるが、これはルターの宗教改革の目的がカトリック教会の刷新からはずれ、ローマ教皇と世俗権力との覇権争いになっていった構図と合致している。そして「心に信じること」が確信犯となって「剣」に都合のよい口実を与えたことは、第二次大戦のイデオロギー信仰(反共・ファシズム)が同様に「平和を欲する良心ある人」を戦争に駆り立てていったことと共通する。1930年当初ヒトラーは、17世紀の宗教的カリスマ同様、颯爽と登場したアイドル的存在だった。彼の示した国家の理想像は魅力的で、誰もがそれに魅了された。説教僧のように雄弁で禁欲的な独身男は、清潔で私利私欲とは無縁に見えた。虚飾にまみれた宗教的狂信がドイツ人に理性を失わせた二つの時代を、ウェッジウッドは重ね書きしようとしたのだ。
しかしこの若い女性歴史家の批判精神はその後少しずつ変質し、1982年のフォークランド紛争に支持を表明したとき、完全に失われた。国家イデオロギーに取り込まれ、自身が批判した「心に信じるものを剣に委ねる愚」をおかした歴史家は、エリアス・カネッティをはじめ、多くの知識人たちを失望させた。『三十年戦争』で彼女がうたった「究極的な良き平和の希求」が、ファシズムに直面したイングランドの平和であり、自国の危機を前にすればあっけなく崩れ去る、脆弱なものでしかなかったことが証明されたからだ。この変節には、晩年のウェッジウッドがサッチャーの親友であり、彼女の重要な助言者であったことが大きく関係している。歴史的実証主義は、安物の愛国心によって骨抜きにされた。
こうした個人的情緒から来る、「愛国的変節」はドイツにもある。2014年は第一次世界大戦勃発から100年、第二次世界大戦勃発から75年、ベルリンの壁崩壊から25年目にあたる、ドイツ人にとって「歴史の年」である。苦難の20世紀の意味を問い、再検討することは重要な知的作業であるが、その反面、情緒によって事実が書きかえられる危険性もある。80年代にドイツで起こった「歴史家論争」はそのよい例だ。歴史家エルンスト・ノルテはその中心人物だった。彼はナチス・ドイツの開戦をソ連のボルシェビキ運動の高揚の帰結であり、「ヒトラーはよくいわれるような、戦争のために戦争を遂行したのではなかった。彼はポーランドと反ソビエト同盟を結ぼうとしていた」と主張し、ヒトラーを凶悪なスターリニズムへの抵抗者として評価しようとした。しかしこのいわゆる「修正主義」は、ヒトラーとスターリンが密約を交わし、ポーランドを分割し侵略したという事実に反する。ノルテは60年代にファシズムに関しての優れた学位論文を書き大学教授となった人物だが、80年代に入ると自分の研究に反旗を翻し、修正主義に転じた。そしてこの変節にも、歴史家の「愛国的情緒」が関係していた。ノルテは左手に障害があり、3指欠落して生まれた。それゆえ第二次大戦では徴兵を免れたが、弟は戦死した。彼にはそのことに深い自責の念があり、「それゆえわたしは時代の問題を一方的な驚愕からだけではなく、歴史的に究明しなければならないという義務を感じるのです」と、あるインタビューで答えている(Der Spiegel, 2014 Nr. 7)。ファシズムにまつわるスキャンダラスな「驚愕」とは距離をおいて、客観的にその時代を再評価するといいながら、その決意のなかに、戦死したドイツ人兵士と、とりわけ自身の弟への情緒的な思い入れがあるのは、矛盾している。そしてこのことは、情緒が客観性の衣を借りて、事実に変身しうるという、恐ろしい傾向を示している。
ひるがえってわが身をみてみると、「英霊」を楯にし、「中国と朝鮮半島の脅威」を口実に危機意識を煽り、歴史問題を「再検討」しようとする日本の現実にも、これとまったく同じ構造が当てはまる。性奴隷がいたり、いなかったり、虐殺があったり、なかったり、相手への気分次第で、ころころ歴史を読み替えても、何ら疑問に感じない人たちは、やがて自分たちの生きた意味もすり替えられ、いなくてもよかった人間の仲間入りをすることになる。自国の平和とプライドだけに眼を奪われ、情緒で歴史を読み替えようとすると、必然的に戦争が起こるということだ。歴史家の愛国的変節を批判する厳しい眼がヨーロッパには存在するが、日本の場合はどうなのか。気分ではなく、論理で考えてもう一度平和について議論する理性があると信じたい。