Ich bin steindumm

2015/03/27 『雪の轍』 ―地獄への道は善意で舗装されている

 外国に出張に行くときは、準備が間に合わず往路はほとんど発表原稿の仕上げに追われる。その反動か帰路は気が緩んで、機内で映画ばかり見る。ドイツでの学会出席を終えた帰りも映画を見た。トルコのヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督の『ウィンター・スリープ』(Winter Sleep 邦題『雪の轍』)。カンヌ映画祭の覇者だ。
 トルコのカッパドキアの小さな村でホテルを経営する男の話。裕福なのは、彼が父親からホテルや不動産を譲り受けたからで、ほとんどの村人は痩せたカルストの大地にしがみつくように細々と生計を立てている。男は、再婚した若い妻と、離婚して戻ってきた姉と3人でつつましく暮らす、土地の名士であり、善意の人でもある。彼が善意の人であるのは、地方紙に定期的に社会派のコラムを書き続け、弱者の救済を訴え、宗教的不寛容を批判しているからだ。非の打ちどころのない経営者であり、家長であり、夫であり、教養人であることが彼の自負なのだが、その自負が躓きの石となる。
 日がな一日書斎に座って正義のコラムを執筆する兄に、妹は「悪に無抵抗ではいけないのか」という疑問を投げかける。「絵を盗まれたくなければ、泥棒にやってしまえばいい。いつか泥棒が恥じるのを待てばいい。」もちろんそれでは世の中は無秩序になる。泥棒や殺人が横行する。ユダヤ人を引っ張っていったヒトラーに「どうぞ」と言えば、いつか彼は恥じたのか。同情は悪意で報いられるものだと兄は主張する。しかし、悪と闘う兄の欺瞞を妹は見抜いている。彼が自らの悪意を偽善のベールで隠していることを。馬鹿げた問いにいらだって兄は言う。「世界を造ったのは神だ。この世に正義がないのは俺の責任か?」
 若い妻の眼差しはうつろだ。彼女は地域住民に協力を呼びかけて募金活動を行い、小さな学校を建てようとしている。夫はこの活動を「偽善」と切り捨てる。「地獄への道は善意で舗装されている。」慈善家を自負する夫が妻の活動をなぜ支持できないのか。その問いに彼は自ら答えることはできない。家父長的な女性観もある。妻の若さへの嫉妬もある。しかし妻を最も傷つけているのは、夫の掲げる高い理想なのだ。誠実、道徳、良心、公平、節操・・・小さな村で、せまい家庭で掲げられる美徳が人を惨めにし、恥をかかす。夫の高いプライドの前で、妻は若さを失い、「しおれていく」。
 貧しいものたちは理想もプライドもなく、ひれ伏し、みすぼらしく懇願するしかない。「酔っぱらいで薄汚れたイスマイル」に唯一残ったプライドは、強者の偽善を拒否することだった。
 カッパドキアとは「美しい馬の地」という意味だそうだ。ホテルのホームページに馬の写真を載せていたオーナーは、実は馬がいないことを客に指摘され、野生の馬を生け捕りに行くが、馬は川に落ちて溺死寸前になる。辻褄を合わせに、野を駆けるものを檻に閉じ込めることが、彼が自らを偽る者であることをよく現している。

 偽善(ヒポクリシーhypocrisy)とはギリシア語で元々「役者」の意味だ。主人公が以前イスタンブールで俳優だったのも偶然ではないだろう。彼の高邁な志は、決してメロドラマを演じさせなかった。それが彼の誇りなのだ。役者が舞台で演じる見せかけの善人が正義も平和ももたらさないように、ただの正義感と良心は誰にも幸福をもたらさないことをこの映画は辛らつに批判している。「良心とは臆病者がつかう言葉。強者を黙らせるためにつくられた言葉。この強い腕こそが良心。剣こそが法」。映画は終盤で、ある登場人物にそう叫ばせる。ハムレットの台詞だ。映画はそのような破滅的な良心を望んでいるのか?人が理性で築いた善良さは悪なのか?善悪の二項対立では説明できない、人間の善意の矛盾を描くこのドラマは、強い問いかけを残す。

 

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