2015/07/31 すぐに役に立つものは、すぐに役に立たなくなる
文部科学省が今年6月8日に出した通知は、わたしたち人文科学を研究するものに少なからず衝撃を与えた。それは、全国に88ある国立大学の「教員養成系学部・大学院、人文社会科学系学部・大学院については、18歳人口の減少や人材需要、教育研究水準の確保、国立大学としての役割を踏まえた組織見直し計画を策定し、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努めること」というものだ。もちろん「通知」であり、通達ではないので、努力目標のようなものと理解すればそれまでだが、いやしくも日本の文部科学行政の長が出した通知は、日頃から人文社会科学を鬱陶しく思っている人たちに、縮小のための格好の口実を与えることになる。確かに大学教育のあり方や、社会が求める大卒人材もこの20年、30年のあいだに大きく変貌し、高等教育機関も変化・進化していかなければならないことは確かだ。しかしそれがなぜ教育学部と人文社会科学部だけの努力目標とされ、理系学部にはその必要はないのだろうか。18歳人口減少、人材需要、教育水準の確保、国立大学としての役割なら理系学部にも当然当てはまるはずだ。文系だけに圧力をかける通知にはもっと別の意図があるのではないかと考えていたところ、7月31日に日本学術会議が公開シンポジウム「人文・社会科学と大学のゆくえ」を開くとのことなので、出席してきた。
5名のパネラーの問題提起はそれぞれ興味深く、「文系軽視の大学行政は優秀な人材の国外流出を招く」、「文系の特殊性を顧慮した評価基準の策定が必要」(酒井啓子)、「人文社会系学部の縮小廃止をすすめた中華人民共和国が、やがて文化大革命による粛清国家となった」(久保亨)、「日本の学生の半数は人文社会学系である」、「にもかかわらず、大学院進学率はアジアではタイ以下、ヨーロッパではスロベニア、ギリシア以下、南米ではアルゼンチン以下。大学院を含めた重点化が必要」、「女子の大学進学率上昇させてきたのは文系であり、文科省通知は社会的ニーズを無視している」、「地方国立大学は地方創生の重要な拠点」、「言葉は一人歩きする。〈廃止〉といった物騒な文言は削除させるべき」(三成美保)、「すぐに役に立つものは、すぐに役に立たなくなる」(須藤靖)等々、啓発的な提言が多く勉強になった。
しかしその反面、今回の通知の原因を、「文系学問が社会や産業に対して明確な存在意義を提示できなかったこと」、「文系教員の研究・教育両面での怠慢」にみたり、「そもそも文系の学生が社会に出て役に立つ知識を大学に期待しているのか」といった醒めた自己批判的な意見も出た。自己評価制度もFD制度もない大学に勤務しているわたしには耳が痛いが、あえて言わせていただけば、そういうことをいっているから文科省になめられるのだ。
先に引いた「すぐに役に立つものは、すぐに役に立たなくなる」は慶應の元塾長小泉信三の言葉だそうだが、ノスタルジックな響きだけではなく、学問の本質を言い当てていると思う。たとえば「社会的要請に応える大学」というときの、「社会的要請」とは何だろう。せいぜい雇用者にとっての使い勝手のよいサラリーマンやOLを意味するのが関の山で、最悪の場合は「国益」のためにはいつでも死ねる人材とでもいうことになる。大学は企業やお上のお役に立つ人間をつくる場所ではない。あえていえば、そうした下僕的処世術をはるかに越えた、食べる、愛する、生活する、共生するといった人間としての基本的な生存スキルが何なのかを自己発見的に学ぶ場である。それを知るものが社会に役に立つ人材であり、それはときとして上司に盾突き、小役人に反抗する。むしろ人文社会科学は見せかけの効率化に背をむけるがゆえに、科学の世界で存在意義を示すことができる。
「役に立つものがすべてだ」という思考は、役に立たないものは淘汰されるべきだという社会的ダーウィニズムを肯定することになる。効率性を信奉する人は、果たして「人間役に立つうちが人間だ」という思想に共鳴して、自分がお払い箱になった時、姨捨山や収容所のガス室にすすんで行くのだろうか。少なくともわたしたちの社会は「共生」を理想に掲げ、そうした方向には向かっていない。そうした方向に向かいたがっているのは現安倍政権であり、今回の「文系廃止論」もそうした文脈から読み解くことができる。
シンポジウムの総括で、「今回の廃止論は、1990年代の大綱化(つまりカリキュラム編成を大学の自主性にまかせること)に始まり、教養課程解体、国立大学の法人化と進んできた文部行政の延長にある」とされたが、そうだろうか。わたしは今回の文系不要論は、国自体が右傾化し、戦後の平和主義を放棄し、内政では治安維持国家へ、外交では軍事国家へと突き進もうとしていることのひとつの現れだと考える。それは端的にいえば、ファシズムへの、つまり多様性を否定する全体主義への道標だ。
ファシズムはまず本を焼き、そして科学技術を祭り上げる。なぜ本を焼くのか?それは書物が知の集積であり、そこには人間の思考の歴史が詰まっているからであり、安っぽいイノヴェーション志向(動かなくなったものは捨てて、新しいものに買い換えればよいという考え)を否定するからだ。ファシズムはこの「新しい電化製品」をもっと魅力的にするために科学技術を祭り上げる。ヒトラーは「一家に一台フォルクスワーゲン」をうたい文句に、生活の豊かさをクルマに代弁させようとしたが、その技術は同時に、超静音モーターで走るUボートや、ロンドンを焼くVロケットや、ジェット戦闘機へ転用できるものだった。ヒトラーが無類の「新し物好き」だったことはよく知られている。彼は古くなったものを修理して使おうという発想をもたなかった。戦闘機であれ戦車であれ「新型」をどんどん前線に投入させたせいで、部品が汎用性を失い、結局壊れたら捨てるしかない鉄屑の山をかかえることになり、ロイヤルエアフォースとソ連戦車隊に負けた。しかしこのイノヴェーションは技術を飛躍的に進歩させ、フォッケウルフ一機の性能とティーガー戦車一台の性能では連合軍をはるかに凌いだ。それが何百万もの戦争犠牲者の代償だった。
ひるがえって日本を見てみれば、第二次大戦前に無類の「科学技術ブーム」があったことが知られている。技術革新は国是であり、国は戦艦建造ブームに沸き、零戦が生まれ、生産力増強のための新技術が次々と開発され、少年たちは冒険小説を読みふけり、ロケットに憧れ宇宙を夢見た。その一方で、文化の多様性と国際性は否定され、大政翼賛運動の名のもとに、「都市」は「西欧思想の植民地主義の温床」であり、「現代文化が生命力を失ったことの元凶」であるとされ、地方文化の再生が声高に叫ばれた。ファシズム国家では、進歩と退行が同時に進行するという現象は日本もドイツも同じだった。
全体主義国家ではまず文系が血祭りに上げられる。太平洋戦争末期、土砂降りの雨の中、神宮外苑を行進する大学生の映像を見たことのない人はいないだろう。彼らはみな徴兵猶予を取り消された文系の学生たちだった。戦時中は文系学部の縮小もおこなわれている。
トーマス・マンは亡命中に書いた『ファウスト博士』で、人文主義がファシズムの暴力の前で無力に沈黙せざるを得なくなるさまを描いている。文明によって頽廃し疲弊しきった近代文化を再生させるには「生のダイナミズム」しかない、と民衆が熱狂し、そのためにはベルサイユ条約も、啓蒙主義もみな飛び越えて、一気にゲルマン神話の生命力に諸手をあげるのを目のあたりにして、人文主義的教養人は言葉なく、自閉的世界に閉じこもるしかない。イノヴェーション(新しいゲルマン国家の建設)の陶酔の前では、人文主義の掲げる古典の再興など吹き飛んでしまう。このイノヴェーション熱は、「美しい国日本!」と連呼して、教育再生会議などを立ち上げていたわれわれの首相とどこか似ていないか。
人文科学とは歴史の上に成り立つ学問である。歴史観をもたない技術と民族主義が行き着くところは、全体主義の暴力と野卑と無思慮であることは、歴史自体が証明している。今回の人文社会科学系学問の大学からの駆逐は、その顕著な現れだ。威勢のよいイノヴェーションではなく、地道なリフォーム(再生)こそ大学に必要なプロセスなのだ。