2016/07/21 我らと共に留まれ、日も早や暮れんとす
国立西洋美術館で『カラヴァッジョ展』を観る。放蕩の限りを尽くし早世した画家が、たった39歳ですでに完璧な技術をもっていたことにあらためて驚かされる。計算して描けるものではない。画家の眼にはその聖書の決定的瞬間がまるで、その場に居合わせたかのようにはっきりと見えていたのだろう。「エピファニー」という言葉がある。公現とも訳されるが、真理が姿を現す瞬間のことだ。そしてキリスト教とはこのエピファニーの宗教なのだ。
ドイツの哲学者エルンスト・ブロッホはキリスト教が最も優れた宗教であるのは、それが超越的な神性を目に見えるものへともたらしたからだと言う。オルフェウスやゾロアスターや仏陀が、現実を超越へと投げあげてしまったのに対して、モーセとイエスは、超越を現実に引き戻した。「偉大な自己救済たる仏陀でさえも結局は涅槃の無宇宙のなかに沈んでしまう。それに反してモーセは神を強いて自分に同行させ、神を一民族の脱出の光とするのであり、イエスは人間の護民官として超越的なものに浸透し、超越的なものを御国へとユートピア化するのである」(『希望の原理』1402)。聖書のもっとも重要なハイライトは、超越的なものが公現する瞬間である。そしてカラヴァッジョはまさにこの神的なものが姿を現すエピファニーを絵筆で捉えようとしたのである。いままさに十字架につけられようとする殉教者を描いた『聖ペテロの磔刑』、忌み嫌われていた収税人のマタイにイエスが現れる『聖マタイの召命』、キリスト教徒の敵だったパウロを根本から変える体験を描いた『聖パウロの改心』、イエスの死を嘆き悲しむ人々を描いた『キリストの埋葬』、どれも神性が弾け飛んで、姿を現す瞬間を描いたものだ。激しやすかったといわれる画家ならではの作風だろう。
今回の展覧会のメインも、有名な『エマオの晩餐』だ。この絵をカラヴァッジョは二つ描いているが、これは2作目、彼がローマで殺人を犯して、逃亡中に描いたものだ。最初の作に比べて陰鬱で、登場人物すべてが闇に沈んでいる感じを与えるのは、画家の内面を表しているか らなのだろうか。出典はルカ24章13節。イエスが処刑され、弟子たちも逮捕を恐れて散り散りになっていた。そのうちの二人がエマオという村に向かって歩いていると、見知らぬ男が近づいてきて一緒に歩き始めた。何の話をしているのかとたずねる男に、弟子の一人は「あなたまさかナザレのイエスが十字架に架けられたことを知らないのか」と切り返す。「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使が現れ、『イエスは生きている』と告げたと言うのです。」(21節以下)明らかに婦人たちの言うことを信じていない弟子二人を男はたしなめ、それこそメシアが復活するという予言通りではないかと説明して聞かせる。しかしリーダーを失って呆然としている弟子には、その意味がよく呑みこめないまま、三人は目的のエマオに到着する。見知らぬ男はさらに先へ行こうとする。弟子たちは言いようもない不安に襲われて、無理に男をひきとめ、夕食を共にする。食卓についた二人に見知らぬ男はパンをとり、祝福して裂いて渡す。そのパンの裂き方を見た瞬間、二人の目は開けて、それが復活した主イエス・キリストだと気がつくのである。カラヴァッジョはこのイエスが公現した瞬間を描いた。
前作でやや正面左手から光を当てて弟子とイエスを明るく描いたカラヴァッジョだが、二作目では左手からようやく差しこむ薄暗い光に登場人物たちを半分だけ何とか浮かび上がらせただけだ。こちらのほうがリアルだ。何しろエマオはもう日暮れていたのだから。
この神が現れたエピファニーの瞬間が神秘的なのは、それに先立つ3人の道中があるからだ。クレオパという名もない弟子ともう一人は、イエスも言うように、メシアの予言が理解できるほど「物わかりもよくなく、鈍い」男たちである。しかしそんな彼らにメシアが現れたのは、彼らが彼を引き留めたからなのだ。文語訳は言う。
遂に往く所の村に近づきしに、イエスなほ進みゆく様なれば、強ひて止めて言ふ「我らと共に留れ、時夕に及びて、日も早や暮れんとす」
村に着いたが、男は二人に目もくれずさっさと先を急いでいく。慌てた二人は思わず叫んで言う。もう夕方だ、日もすぐ暮れる。どうか今晩は俺たちと一緒にいてくれ、と。彼らは自分たちの言っている意味を知らなかった。それが、放っておけば夜の闇につつまれて消えてしまう世界を何とか押し留めようとして発した言葉であることを。
カラヴァッジョの『エマオの晩餐』はまさに闇に呑まれようとする旅籠に差しこむ残照が、イエスを照らし出した瞬間を描いている。しかしその次の瞬間、二人の目が開けたとき、イエスは姿を消した。しかし光は残ったはずである。 別れがたい衝動に駆られて、もう少しでいいから一緒にいてくれ、という言葉を発したことは誰しもあるだろう。その人は残らなかったかもしれない。しかし言葉と光は残ったのだ。
カラヴァッジョは奇蹟の瞬間を描いたが、わたしには、奇蹟にはまったく縁もゆかりもなさそうな凡庸な弟子二人が、しかし何か言いしれぬ不安に襲われて思わず叫んだ言葉こそ、本当の奇蹟のように思えてくる。「我らと共に留まれ。」何かに向かってそう言わなければならない。