2018/04/15 彷徨える河と古都グリューンベルク
文化人類学者のレヴィ=ストロースは『野生の思考』の中で、原始共同体における文化の継承には「冷たい記憶」と「熱い記憶」があると述べている。冷たい記憶とは繰りかえし必ず正確に想起される「記録」のことであり、これが重要なのは、それが共同体の安定に貢献するからだ。たとえば「法」はその代表的なものであり、その記録と継承は治安の維持に欠かせない。これに対して「熱い記憶」はたとえば部族神話のように、繰りかえし語られ、社会を刺激しながら新しい次元へ引き上げる揚力のようなものだ。創世神話や英雄伝説は歴史的な事実としてだけではなく、それを聴くものに強い結束感をいだかせ、部族の一員としてその繁栄に貢献しなければならないという使命感を植えつける。わたしたちの社会はこの二つの記憶のバランスの上に成り立っていて、そのどちらかが欠けても、危険な方向へと進んでしまう。たとえば現在の最も深刻な国際問題である、エルサレムへのアメリカ大使館の移転問題を例にとれば、これはイスラエル人がいだく建国神話という熱い記憶に、超大国が一方的に肩入れし、国際社会が取り決めたパレスチナ問題に関する冷静なルールを踏みにじろうとしている事態だと捉えることができる。あるいは、その逆に、太平洋戦争を経験した人たちの熱い(苦しい)記憶が、戦後70年たって冷却し、安全保障法という冷たい条文に変わることもある。二つの記憶は相容れず、たびたび衝突することもあるが、それを調停するのが真のリーダーの力量だといえる。そうしたリーダーを失った社会は、バランス感覚を欠いた、暴力だけがものをいう凶悪な装置になる。
同じことは記憶だけではなく、「知恵」にも当てはまるだろう。わたしたちは記憶や記録に支えられた知恵と、社会的な動物として生きのびるための知恵の両方をバランスよく使い分けながら生きている。学校で良い成績をあげていた秀才が必ずしも社会で通用するわけではないように、親の七光りの二世、三世がコネだけで組織を切り盛りできるほど、世間は甘くはない。知恵も科学も生きるために必要なものだが、うまくかみ合わなければ、人を不幸にしてしまう。
『彷徨(さまよ)える河』(チロ・ゲーラ監督、2015年コロンビア)はそうした二つの知恵の葛藤を描いた映画だ。
アマゾン流域の原住民の研究をしているドイツ人学者テオ・マティアスは重い病気を患い、シャーマンのカラマカテのもとに運びこまれる。シャーマンは呪術師だが、薬草に通じた医者でもある。しかし入植してきたスペイン人に一族を虐殺されたカラマカテは治療を拒否する。アマゾン流域は植民地支配が進み、生ゴムを求めて入植しプランテーションを建設する資本家や、キリスト教宣教師などが先住民から利権と文化を奪い、逆らうものは容赦なく殺していた。鋭利な刃物のような科学文明が、原住民の素朴な知恵の文化を圧倒するのを目の辺りにして、孤独な青年シャーマンは群れを離れて、一匹狼として生きる道を選ぶ。瀕死のテオにカラマカテは吐き捨てるように言う。「白人の科学は、暴力と死しか産まない。」それほどの憎しみをいだきつつも、彼がドイツ人人類学者を救おうと考えるのは、二人がともに「知恵」を求める求道者だからだ。「知ることは生きること」という信念は、まったく別の道を行く二人の知恵者を結びつける。
テオには実在のモデルがいる。テオドール・コッホは1872年4月9日ドイツ中部の古都グリューンベルクに牧師の子として生まれた。故郷の名を取ってコッホ=グリューンベルクと名乗るのは、郷土への誇りからだろう。ギーセンやテュービンゲン大学で古典学やドイツ文学、歴史、地理などを修めるまでは普通の学生だったが、やがて民俗学で頭角を現し、ドイツ各地の大学で教鞭をとり、博物館の館長を務めるようになる。しかし何より、彼の名前を後世に残したのは、南米ブラジルやコロンビアへの四度にわたる探検旅行である。当時ドイツの大学には文化人類学の講座がなかったことからもわかるように、未開の土地で実地調査をおこなう研究者はほとんどいなかった。そんな時代にテオドール・コッホは強い信念をもってジャングルに分け入り、原住民の生活を丁寧に記録しつづけた。それは文字による記憶だけでなく、詳細なスケッチや、写真、それに原住民の祭事を音源で記録したグラムフォンにまで及んでおり、彼が失われゆく原住民の生活をいかに精力的に保存しようとしたかがうかがい知れる。1909/10年に彼は『北西ブラジルのインディオたちと過ごした2年間』という探検記を出版するが、それは単なる旅行記ではなく、圧倒的な「記録力」を手にいれた西欧の科学者が、それをもたないまま西欧文明に呑みこまれて消えていく世界に対して負った代替義務のようなものだった。序文で彼は次のように書いている。「門外漢は〈野生人〉が裸で歩き回り、違った肌の色をしているからといって、蔑視しがちだが、それはあまりに短絡的だ。ここにわたしが記録したのは、そうした偏見を取り除き、インディオたちの正しい評価を多くの人たちに知ってもらいたいからだ。しばしば命の危険に遭遇したが彼らの支えと誠意がなければ、今回の旅行は不可能だったか、あるいは突然終わっていたかもしれない。」この本は科学者の知的好奇心の副産物ではなく、西欧文明とは別のところで素朴な生活を営む人びとへの敬意と愛情がそれを書かせたのだ。彼が記録したのは、現地民の狩猟方法や冠婚葬祭や出産と多方面にわたるが、特に目を引くのは呪術師による病気の治療だ。呪術師が重病人を炎天下の地面に寝かせる。カタツムリの殻の入れた何かの粉末をかがせると、患者は即座に意識を失う。呪術師はそれから患者の体に息を吹きかけ、撫で、病気の気を吸いこみ、すぐに茂みに駆け込んでそれを吐き出す。それを何度も繰り返す。やがて患者に意識が戻り立ち上がると、人びとは治癒を象徴する赤色の絵の具で彼の体に水玉模様を描き始める。テオは書く。「驚くべきことに、病人は何日かたつと、ハンモックをおりて、われわれに提供された小さな小屋まで来ても良いことになった。もちろんまだずいぶん弱っていて、杖なしでは歩けない。衰弱はなはだしく、髪が真っ白になっている。発病以来彼は、薄い穀物汁以外何も口にしていなかった。体調が悪い時インディオは厳しい食事制限をするからだ」(98頁)。西欧医学とはまったく異なった治療法に驚きつつ、それが一定の効果を患者にもたらすことに彼は素直に感服している。
映画『彷徨える河』でもシャーマンのカラマカテの使う呪術と医術が大きな役割を果たす。テオの病を治すことのできるのは、ゴムの木に寄生する幻の植物ヤクルナだけで、それを求めて二人はカヌーでアマゾン川を遡っていく。秘薬ヤクルナが、西洋人の植民地支配の象徴である生ゴムの木に寄生するというのも、皮肉な話だが、それは二つの相対立する知恵がそれぞれ支え合っていることを表している。カラマカテしか知り得ない熱い秘術と、テオが記録し出版しようとする、すべての人に供された冷たい知識は、それぞれが相互に医者と患者のような関係にある。それは老いて認知症を患い、まったく記憶を失い、医術も薬草学もすべて忘れてしまったカラマカテが、テオとの旅の40年後に再びヤクルナを探しに出ることになるときに、明らかになる。熱い知恵だけで生きたシャーマンはいま無力な老人となり、彼が若い頃に笑いとばして馬鹿にした、テオの探検記の助けを借りて再びアマゾン川に出ていくしかない。しかし40年を経て再び目にするアマゾンの風景はグロテスクに様変わりしていた。記録しない、つまり時の流れに流されるままに生きた原住民は、相変わらず無力のまま西欧文明の猛威にさらされ、隷属を強いられているのだ。
この映画を、わたしが企画したシンポジウムで、ドイツ人たちと観た。シンポジウムのテーマが「宗教的体験」だったので、キリスト教的世界観と民間信仰の対立を考えてみれば、面白いと考えたからだ。上映は好評だった。しかしもっと嬉しかったのは、会の後、一人のドイツ人婦人がわたしのところに来て、自分はグリューンベルクの出身で、テオドール・コッホは町の英雄、彼の博物館まであると話してくれたことだ。テオドールが実在の人物であることはもちろん知っていたが、まさか彼の生きた痕跡がそんなに身近にあるとは考えてもみなかったので、驚き喜んだ。ちょうどその一週間後、ドイツへの出張を控えていたわたしは、急遽グリューンベルクへの旅を旅程に加えた。
町はフランクフルトから列車で1時間ばかりのところにあった。人気のない駅で下車し、長い通りをいくと旧市街の城壁が見えてくる。その内側はまるで時間が止まったかのような、美しいハーフティンバーの世界。どの旅行ガイドにも出ていない、神秘の町に入ったような気がして心躍った。1186年に建設された町は戦災に遭うこともなく、古い姿をいまに残した。ルネサンス様式で建てられた美しい「マルクト広場」、牢獄として使われた「泥棒の塔」、フランシスコ修道院、宗教改革の後修道院を改造した「大学」、「醸造所」――町は歴史的建造物の宝庫だ。もちろんテオドールの生家も町外れに
ある。そしてそこからほど遠くない場所に彼の博物館があった。
正面玄関の前の小さな中庭にはテオドールの胸像があり、その前で女性が本を読んでいたが、わたしを見つけると、「あなたがメールした日本人でしょう」と立ち上がった。復活祭初日で祝日の「灰の金曜日」に、博物館が開いているとは思えなかったので、問い合わせたのだ。地元出身の彼女もまた町の英雄について誇らしげに語ってくれた。館内にはテオドールが探検で使った機材や、現地からもち帰ったものが綺麗に整理されて展示されている。映画で観たのとそっくりの、大きなトランクがあるのにも驚いたし、彼が原住民との物々交換に使った真珠や鏡や鈴といったヨーロッパからの小物も興味深かった。映画では現地民に羅針盤を盗まれて、テオが憤慨するシーンがあったが、彼が実際に使っていたコンパスも展示してあった。呪術師の衣装も展示してある。衣装に病気の霊を乗り移らせて、そのあと焼くのだそうだ。生と死の世界をつなぐ面が、茶目っ気たっぷりに笑っているのが不気味だ。ショップには、テオドールの孫娘にインタビューしたテレビドキュメントのDVDや、彼が現地で録音した原住民のお祭りのCDも販売していた。そこには呪術師の不気味な歌声も記録されている。Tシャツに短パン、モータボートでアマゾン川を行き来する、現在のインディオたちはもちろんそうした歌声を聞いたことはないだろう。この町出身の民俗学者がいたからこそ、彼らの文化は、冷たい原盤にではあるが記録され、わたしたちに伝えられ、それが逆輸入のように、南米出身の監督に映画製作の霊感を与えた。熱い知と冷たい知の共同作業がわたしたちの文化を豊かにしている。
修道院の付属病院を改造した博物館の裏には墓地が広がっていた。ここに彼は戻ってくることはなかった。テオドール・コッホ=グリューンベルクは、4度目のアマゾン探検に出て間もなく、1924年10月8日ヴィスタ・アレグレという小さな村でマラリアを得て、客死する。52歳だった。映画では瀕死のテオは何度も、「死ぬのが怖い」と繰り返していた。彼が怖れたのは自分が消えてしまうことだが、もう一つ、豊かな文明が地上から消されてしまうことでもあったのだろう。