2021/03/31 「もう見たわ、この世界のまぶしさを、誰よりもたくさん」
好きな人と好きなものを見たり、食べたりしたくなるのはなぜだろう。「好き」は感情だが、実はモノと結びついている。何かを分けあう感情とでもいうような。美味しいものを食べたり、美しい風景を見たりしたとき、「ああ、あの人と一緒ならな」と思ってしまうのは、そのせいだろう。分けあえない美しさは、悲しい美しさとなる。「分けあった喜びは二倍の喜び、分けあった苦しみは半分の苦しみ」ということわざがドイツにはある。共有することで喜びは倍になる。しかし、美しくもない苦しみを共有することができるのだろうか。重荷を半分にするために共有するのだろうが、深刻な苦しみを楽しみのように分かち持つことができるのだろうか。それが死という重い現実ならなおさら分け合うことはできないのではないか。
土田世紀(つちだせいき)という漫画家を知ったのは、『かぞく』というオムニバス短編集を読んだときからだ。トラック運転手の父を亡くした少年の物語『父ちゃんの関越道』や、親に捨てられる兄妹の物語や、里帰りできないゲイの青年の物語など、悲しみと喜びの微妙な接点で繰り広げられる人間模様を描いた作品は珠玉だ。
その土田世紀に『雲出づるところ』という作品がある。親に捨てられて孤児として育った十一(じゅういち)と、レイプされ心の傷を負った出水(いずみ)の物語。社会の片隅で、息を殺して生きてきた二人は、おたがいの傷をいたわるうちに、心ひかれ、やがて家庭という心安まる場所を見つけ、「タンチョウヅルのつがいのように」仲むつまじく暮らしはじめる。力自慢で気の優しい十一と、才色兼備で天然な出水が親の反対を押し切って入籍してしまい、さっさと東京を捨てて田舎に移住してしまうあたりまでは、この話は喜劇だ。偶然拾った黒人の赤ん坊を養女に迎えようとし、さらに出水の妊娠が判明し、「イイコトばかり」の二人は「かぞく」がもてる幸せにひたる。
しかし幸せは絶頂で悲劇に反転する。妊婦健診で出水に子宮頸がんがあることがわかったのだ。がんは進行性で、妊娠を中断して子宮を全摘出するしかないが、十一と出水は危険な賭けにでる。胎児を人工的に蘇生できるぎりぎりまで待って出産し、出産後すぐにがん治療をはじめることにするのだ。死神との追いかけっこが始まる。24週目、腫瘍マーカーが急上昇し、胎児は帝王切開で分娩、出水はただちに広汎子宮摘出を受けるが、がんはリンパ節に転移していて手遅れの状態で、心肺停止で生まれた赤ちゃんも死亡する。十一と出水は賭けに敗れる。追い打ちをかけるように、拾い子の親が見つかり、養女の話はなくなり、子供は二人の手から奪われる。 大切なものが、一つまた一つと消えていく。
たたみかけるように終幕を急ぐ物語の中、主人公たちは、「何のために生きているのか」と問いかけ続ける。すべてを奪われるだけの人生に、何の意味があるのか、と。
いつかこの物語を妻と読めれば、どんなに楽しいだろうと心待ちにしていた。期待は願いに、願いは祈りにかわった。「やっぱり、家族のために生きているよね」と結論づける日が来ると信じていた。その日は来ず、この優れた物語は私だけの秘密となった。
答えを見つけられないまま、十一はどのように生きたのだろう。土田世紀は42才で早世し、それを描かなかった。