Ich bin steindumm

2013/03/25 オーストリアにて

2013年3月4日から11日まで、オーストリアのグラーツ大学とザルツブルク大学へ出張しました。今回の渡欧は、これまで進めてきた「ヒューマン・プロジェクト」や「中世コロキウム」を継続させるための、次なる布石造りの意味がありました。

グラーツはオーストリア第二の大都市ですが、第二といっても落ち着いた風情のある地方都市です。モーツァルト通りにあるドイツ文学研究所で、グラーツ大学教授のヴェルンフリート・ホーフマイスターさんと研究交流の可能性について話し合いました。ホーフマイスターさんは中世文学の研究者ですが、それ以外にも、地域交流や子供のための啓蒙にも熱心で、活発な活動を続けておられます。彼の企画した「シュタイアーマルクトの中世文学の小径」という催しは、この州の八つの古都を訪ねて、そこでつくられて中世の文学作品に想いを馳せるという企画です。南仏のトゥルバドールは、ドイツ語ではミンネゼンガーといい、ヴァルター・フォン・デア・ヴォーゲルヴァイデなどが有名ですが、シュタイアーマルクトにもウルリヒ・フォン・リヒテンシュタインやフーゴー・フォン・モントフォルトといったすぐれた歌人がいました。恋愛歌謡だけではなく、ホーフマイスターさんが編集したフーゴーの『楽園の物語』(Paradiesrede)は、一種の冥府下りの話で、大変興味深い小品です。近いうちに、是非読んでみたいと思います。

グラーツ滞在中、大変な労をとって下さったのが、大学講師のダグマー・オスワルド女史です。彼女は2年前まで東大駒場の講師だったのですが、震災の後、双子の赤ちゃんとともに故郷のグラーツに戻られたのでした。彼女の案内で、大学の古文書館を見学し、グラーツ大学の所有する写本の保管法と研究方法について学びました。かなりの数の写本がデジタル化されており、それらを日本にいながらにして閲覧できるのは嬉しいかぎりです。

次の目的地ザルツブルクは、モーツァルトの生地として有名ですが、彼だけではなく、多くの芸術家が生まれ、生活した文化都市です。世紀末の退廃的な雰囲気の中で、現代人の不安を歌った詩人のゲオルク・トラークルは、レジデンツ広場のすぐ傍で生まれていますし、町を歩くと、ドイツ歌曲の作曲で有名なフーゴ・ヴォルフが住んだアパートを見つけました。指揮者のカラヤンはここで生まれ、ベームはここで亡くなっています。もちろん、後で書くように文豪シュテファン・ツヴァイクが愛した町でもあります。

大学では、ドイツ文学科教授マンフレート・ケルンさんと面談しました。中世文学の神話受容が専門の研究者ですが、最近は文学における「無常観」の研究で注目を集めている方です。現世を「用無きもの」とみなす価値観は決してキリスト教によるお仕着せではなく、古代以来ずっと文学の主題でした。それは単なるペシミズムではなく、現実の背後にあるより大きなリアリティーを読み取り、それを生きる糧にするために必要な思考でした。用無き現世といいつつも中世の人たちの人生観は明るく、社会は活気に満ちていました。あらゆる有用なものが手に入るというユーフォリア(多幸症)に取りつかれている現代社会が、なぜか悲しげなのと対照的でしょう。モーツァルトも常連だったといわれるオーストリアで一番古いカフェ・トマッセリで、コーヒーを飲みながらの静かな歓談はとても心地よい時間でした。

その後、ケルンさんと、町の南のはずれの丘の上にあるシュテファン・ツヴァイク研究所へ向かいました。ツヴァイクはいうまでもなく戦前のオーストリア文学界を代表する作家です。岩波文庫に収められた『マリー・アントワネット』からインスピレーションを得て、池田理代子さんが『ベルばら』を描いたことは有名ですが、確かに歴史物を得意としていました。通俗作家として低い評価を受けることもありますが、一流のストーリー・テラーであることは疑いもありません。彼はウィーンで裕福なユダヤ人商人の家庭に生まれましたが、1919年から1934年までザルツブルクに住みました。これは彼の最も精力的な活動期に当たります。この町で多くの芸術家と交友を深めますが、ナチスの迫害が目前に迫っていました。前年にドイツで自作が焚書されたことをきっかけに1934年、愛するザルツブルクを去って、ロンドンに亡命します。1938年にはザルツブルクでも焚書がおこなわれ、レジテンツ広場で彼の作品が焼かれました。ツヴァイク研究所の地下に降りていくギャラリーには、本を炎に投じる子供たちの写真が展示してあります。「有害な書物とともに、有害なユダヤ人が焼かれんことを」という恐ろしいスローガンが目を引きます。「本を焼く者は、最後にその民も焼く」というハイネの言葉通り、ドイツもオーストリアもファシズムの戦争に突き進んでいきますが、それはツヴァイクにとって、彼が愛した「ヨーロッパの喪失」でもありました。彼は書いています。「いや、夜明けはまだ遠いだろう。一つのヨーロッパは。わたしたちはまだ何年も、何十年も待たなければならないにちがいない。もしかするとわたしたちの世代がそれを見ることはないかもしれない。・・・しかし、真に確信するためには、現実の保証など必要ではない。それが本当であり真実であると知るためには」(『ヨーロッパ思想の歴史的発展』1932年)。絶望と希望が交錯する中、ツヴァイクは亡命先のブラジルで妻のロッテとともに自ら命を絶ちます。自伝『昨日の世界』を遺して。

研究所の司書エーファさんはとても感じのいい女性で、昼休み返上で所内を案内して下さいました。急に温かくなって春風が吹き込む研究所は、大きくはありませんが、清楚な白で統一されていて、薄倖の作家に想いを馳せるのには何よりふさわしい場所に思われました。そのエーファさんから、ツヴァイクの住んだ家が、今も対岸のカプツィーナベルク5番にあると聞き、その日の夕方、急な坂道を登っていきました。個人宅となっているため中を見学することはできませんが、山麓の木立の中に粛々と立つ邸宅は垣根越しにも見渡せます。ツヴァイクはホストとして多くの著名人をここに招きました。ここでトスカニーニやブルーノ・ワルターが音楽祭の疲れを癒し、この庭でトルストイとロマン・ロランが語らいました。彼の山腹の家はヨーロッパの文化人が集うサロンだったのです。ロンドンに亡命した後も、彼はここへの帰郷を信じて、長くこの家を売ることをしませんでした。遠い異国の地で、ファシズムの向こうにたたずむ、この家を彼は何度も夢見たことでしょう。

シュテファン・ツヴァイク研究所のURLは、http://www.stefan-zweig-centre-salzburg.at/index.php

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