Ich bin steindumm

2013/04/13 伊東泰治先生のこと

名古屋大学名誉教授、伊東泰治先生の訃報を聞く。平成25年4月2日にご逝去。享年90歳。
 小栗友一先生からの封書を見たとき、開ける前から胸が塞がった。長らく病気療養中だと聞いていたので、もしものときにはご連絡いただきたいとお願いしていたからだ。どんなご様子なのかと思い、数年前に一度お見舞いの書簡をご家族宛に差し上げたが返信はなかった。ドイツ中世文学研究者として数多くの研究成果を発表されていたので、ご病気であれば、わたしが少しでもお手伝いして、著作集として公刊させていただけないかと思い、お伺いしたのだが、もうそれどころではなかったのかもしれない。
 伊東先生はいうまでもなく、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバハの『パルチヴァール』(郁文堂)の共訳者であり、『中高ドイツ語小辞典』(同学社)の編纂者でいらっしゃった。わたしがまだ学生でドイツで博士論文を書いていた頃、一時帰国したとき名古屋のご自宅にお招きくださった。1993年5月のことだから、もう20年にもなる。二つ目の勤務校を退職したら、ようやく時間がとれるようになるので、ドイツ中世文学史を本にまとめたいとおっしゃっていた。その時、「中世の文学はドイツもフランスもなく、EU文学です」とおっしゃったことが印象に残っている。ヨーロッパ全体を見渡す広い視座からトリスタン文学を論じられていたので、EU文学史が完成するのも間近かと楽しみにしていたが、ついに公刊の報は聞けなかった。
 研究への情熱は退職後も衰えることはなかった。留学中に、「バーゼルの大聖堂に、ピュラモスとティスベのレリーフがあるので、見てきてくれませんか」というお便りをいただいて、バーゼルへ旅したことがあった。身廊を支える柱に確かにそれはあった。それは、ローマの作家オヴィディウスが『変身物語』に書いたこの悲恋の物語が、中世人にも愛されていたことを示している。恋人ティスベがライオンに喰われたと勘違いして、自ら命を絶つピュラモス。その姿を見てティスベも、彼に折りかさなって息絶える。不思議なのは、自殺を罪としたキリスト教の聖所に、折りかさなって剣に貫かれる恋人たちの姿が彫り込まれていることだ。先生はこのレリーフに、キリスト教の厳格な戒律にあらがう、民衆のセンチメンタルな情緒を読み取っていらっしゃった。
 思えば、中高ドイツ語を基礎から教えてくださったのも伊東先生だった。ヨーロッパ文化一般におよぶ広い学識に息を呑んだが、温厚で、お酒を愛する紳士でもいらっしゃった。夏の集中講義の長い熱い授業の後、ご一緒に金沢の酒房で喉を潤したビールの味は忘れない。
 あの頃先生と読んだ『トリスタンとイゾルデ』をいまわたしも学生と演習で読んでいる。不肖の弟子が何をおこがましいと言われそうだが、教えていただいたことを少しでも次の世代に伝えていくことで、なんとか先生の学恩に報いられればと思う。
 ご冥福をお祈りしたい。

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