Ich bin steindumm

2013/05/25 小栗街道を歩く

 大阪の実家を訪ねたその足を、熊野まで延ばす。6月に予定している研究発表が熊野古道と関係しているので、その取材の意味もあって、少し歩いてみたくなった。ただしわたしの歩きたいのは「小栗街道」の方である。
  「世界遺産熊野古道」といえば物々しいが、小栗街道と聞けば、あれかと思いあたる関西の人は多いのではないか。大阪の四天王寺を始点に大阪湾にそって「紀伊路」をひたすら南へ下り、山を越えて和歌山を過ぎ、田辺まで行って、そこから海を離れ熊野の山深い道へわけいる「中辺路(なかへち)」を小栗街道と呼んでいるのは、これが人形浄瑠璃や歌舞伎で有名な小栗判官の人気にあやかっているからではない。そうではなく、この伝説通りに、艱難辛苦に堪えて山道を越えてくる巡礼者の苦労に敬意を払う心からである。小栗街道とは悲しい道だ。そして、その悲しさがこの道を切り拓いたのだ。ユネスコの登録価値基準の一つは、「現存するか、消滅した文化的伝統又は文明の、唯一の又は少なくとも希な証拠」であることとしているが、ただの山道に過ぎないはずの古道を人類の遺産と認定したのは、まさにその悲しさが文明の証拠だからである。
 熊野はいまは日本有数の観光地になっているが、峻険な山道はながらく人を寄せつけなかった。田辺からつづく中辺路だけでも、熊野本宮大社までは六〇キロ以上ある難路だ。健脚者にも辛いこの道のりを、古来多くの病人たちが越えてきた。その中には不治の病とされた癩病、現代のハンセン病の患者たちが多くいたことが知られている。彼らの目的地は熊野本宮で病気の快癒を祈ることと並んで、大社の湯垢離(ゆごり)場である、湯の峯温泉で病気の治療をすることであった。いまもこぢんまりとした温泉街だが、街外れの下流、いまは駐車場になっているあたりには、そのむかし癩専門の旅館兼施療院があった。服部英雄さんの詳しい調査『いまひとすじの熊野道・小栗街道聞書』(『比較社会文化:九州大学大学院比較社会文化研究科紀要』第1号1995年)は、病者が温泉街でどのようにして生きていたかを生き生きと伝えている。彼らは巡礼客が使った余り湯を使ったり、田んぼに流れ出た湯で体を洗いながら共同生活をし、ともに業病の快癒を祈った。土地の人たちもそうした病人に温かく接した。食べ物を融通し合ったり、療養所や旅館に遊びに行ったり、彼らが癩者に差別や偏見をもたずにいれたのは、貴賤、浄不浄を問わない熊野本宮の信仰に支えられていたからだと服部さんは記す。確かにそうかもしれない。薬湯と呼ばれる湯泉を人々は神の恵みと感じていただろうし、それは何より人目を恥じて治療のために、はるばる山河を越えてやって来た患者たちと共有すべきものと考えたはずだ。山あいの小さな温泉街での共生は心温まる物語である。
 しかし、その後大正から昭和へと時代が移るにつれて、癩者に対する政治的な抑圧が激しくなり、「無癩県運動」のもと、湯の峯の施設も閉鎖され、患者たちは国の施設に移送されることになる。何人かは最後まで抵抗したらしい。最後はやむなく温泉の湯元を止めざるを得なかったとのことだ。彼らが移された草津の粟生楽泉園は、のちに有名な重監房がつくられるところだ。この刑務所のような施設で何人もの患者が命を落としている。山あいの村人の善意から引き離されて、隔離生活を余儀なくされた人々の悲哀は如何ばかりだっただろう。
 体に不具をもつ人たちが、この山道を着の身着のままで湯の峯目指して登ってきた。もはや神仏にすがる以外に彼らには生きる希望がなかったからだが、その道行きはどんなに過酷だったことだろう。先述の服部英雄さんのフィールドワークは、そうした人たちを知る街道沿いの長老の証言を聞き取った貴重な記録だ。ある神社の宮司は子供のころに、巡礼者に一晩だけ社殿の床下に寝かせてくれと頼まれたことを記憶している。その男は両足がないいわゆるいざりだった。宮司は姉と一緒にござ(筵)を何枚かもっていって簡単な寝床をつくってやる。草を引かせてくれと頼まれる。そのかわり朝から何も食べていないから、お粥でいいから食べさせてくれと言われる。ご飯と漬け物をもっていってやる。子供にも憐れさは胸を突くが、近寄ってはならない。宮司は回想する。「冬のしぐれのくる寒い頃にね、肌がみえるようなぼろぼろ、どろどろの服きてたのおぼえてる。ほおかむりしたったような人だったかもしれない。そこははっきりおぼえてない。足がダメだから両手でつっぱって、ぞろぞろちょっとずつ動く。すねにすべるようなやつ、やってたわぁ。竹の皮しばりつけてひきずる。すりきれちゃうから、いんどう袋って麻の強いやつ。あのむしろみたいなもの、腰にまきつけてのう。歩いたあと、血がついてる。本当の話です。両手でひっぱって少しずつ歩く。その姿だけは極端におぼえてますわ」(前掲書20-21頁)。これは昭和10年くらいの話だ。この頃まだ気の遠くなるような苦労をして、本宮と湯の峯を目指した人たちがいた。これはまさに業病に苦しむ小栗判官の姿でもある。判官をのせた土車は悪路でいよいよ立ち往生してしまう。そこへ通りかかったのは山伏の一行。彼らは小栗をなんの躊躇もなく、背中に背負い、湯の峯まで運んでやる。触れるどころか近寄ることさえ厭われた癩者をである。山伏はおそらく、何らかの理由で世間を離れ、山中の修験者として熊野を跋渉した被差別集団だったのだろう。彼らの慈善ネットワークに助けられ、小栗は薬湯の効能で元の姿を取り戻し、快癒して妻の照手と再会する。
 しかし本宮を目指した病人たちがすべてこうした「善きサマリア人」に出会ったはずはない。彼らの多くが残念ながら道半ばで行き倒れたであろうことは、熊野に伝わる「ダル」の伝説からわかる。ダルとは「饑い(ひだるい)」からきた言葉で、「空腹でひもじい」という意味である。重い病を患って、食うや食わずで熊野を巡礼するうちに、途中で力つき山中で飢えて亡くなった巡礼者が「ひだる神」になると信じられていた。これがダルである。熊野では、山中で突然疲労困憊して力がぬけて動けなくなることがあるといわれる。それはダルが彼に取り憑いたからで、そんなときは飯粒一つでも口に入れれば回復するといわれる。民俗学者の南方熊楠も、那智の雲取のあたりで植物採集をしていたとき、突然ダルに襲われた体験を記している。「寒き日など行き労れて急に脳貧血を起こすので、精神呆然として足進まず、一度は仰向けに仆れたが、幸いに背に負うた大きな植物採集胴乱が枕となったので、岩で頭を砕くのを免れた。」明治34年頃のことである。彼の教えを受けた折口信夫もまた同様の体験を、大台ヶ原の嘉茂助谷でしたと記している。何も食べるものをもっていなかった彼は難儀をしたが、後で木樵から、そういうときは米の字を手のひらに書いて呑めばよいと教えられたとしている。おそらく熊野の里人なら一度はする体験なのであろう。折口は山間部の精霊信仰には、こうした行き倒れた人の霊に対する恐れがあるとする(『餓鬼阿弥蘇生譚』)。小栗判官が藤沢の遊行上人に「餓鬼阿弥」と名づけられた事情もこうしたところにあるのかもしれない。熊野は生者の世界と死者の世界の敷居が低くなる場所なのである。
 小栗判官の熊野行はもちろん伝説に過ぎない。しかし餓鬼阿弥同然の姿でこの山道を這うように登ってきた人たちは確実にいた。坂道を登りながら、あるいは王子社で休息をとりながら、その人たちのことに想いを馳せていた。

2013/05/26 赤木越え

宿に荷物を預けて、午前7時57分発のバスで発心門王子へ向かう。ほどなく川から湯気があがる川湯温泉を過ぎる。川原のあちこちに湯殿がつくられている。ここも由緒ある温泉町だ。バスは本宮大社でたくさんの登山客を補充して、山あいを登っていく。快晴。乗客はみな嬉々としている。ほどなくバスは終点、発心門王子前に着く。大半は来た道を本宮大社へ帰る人たちで、赤木越えをする僕たちとはここでお別れだ。発心門とは書いて字のごとく、ここで菩提心を高め大社までの最後の数キロを歩くための、境界線上にあったお社である。平安時代には大きな鳥居があったらしい。藤原定家も本宮に向かう途中、ここで一泊している。「殊に信心を発す。紅葉風に翻る」と『御幸記』に書いている。1201年のことだから、ゆうに800年以上も前のことだ。その間に何度も社殿は建て替えられ、いまは小さな社となっている。信心を発して、頭を垂れる。
 ここから一気に山道を下って、しばらくすると、猪鼻王子社に出る。お社があるわけでもなく、新緑の中に、苔むした小さな仏様が鎮座している。その無欲なお顔が何とも愛らしい。道はいったん車道へ出て、それからさらに下って船玉神社へ。地元の人たちが社殿の掃除をしている。そこから道は音無川を渡って、いよいよ赤木越えの急登となる。本宮へ向かわず、三越峠から湯の峯へ向かうために切られた山道であろうが、昔は生活道路としての意味をもっていたのだろう。

 急な坂を登り切ったところに、人の手が入った石垣があることに気づく。いまは杉林しかみえないが、ここがかつての「けんじょう茶屋」であり、道行く人が一息いれた場所だ。赤木越えの道中にはもう一つ廃屋となった「柿原茶屋跡」がある。時が移り、人の足が絶えると、人の営みは自然に呑みこまれる。山を歩くと時折出会う、かつての茶屋跡は山道の大切な証人だ。ここにはかつて笑い声が満ち、世間話がこぼれていた。知らずに歩いていても、なぜか立ち止まってそうした「遺跡」を見つけてしまうのは、そこにまだ人臭さが残り香のように漂っているからだと思う。
 このあたりから、少しずつ逆方向から来た登山客とすれちがい始める。山頂付近で、本宮大社から大日越えをして発心門王子に向かうグループに会う。そこからまだ本宮までまわって一周する大変なコースだ。ガイド付きの混成チームとのこと。明るい笑い声が響いている。

ここからは新緑の中を湯の峯の方に下る。逆コースは登りが多く大変だ。バスの本数が少ないので、先に発心門王子まで登ってしまったが、緑の中を先のグループのように長い時間をかけて登ってくるのもいい。途中いくつも眺望の開けた場所があり、涼をとることができる。また、一遍上人一行が昼食をとろうとして鍋を割ってしまったという言い伝えのある「なべわり地蔵」や、お大師像が道々にあり、この間道が歴史の一部であったことを思い起こさせる。その中でもとりわけ気に入ったのが、柿原茶屋跡を越えて道が下り始めるあたりにある、かわいい指さしの道標だ。「ユノミ子 カ平」(湯の峯 かきはら)とある。おそらく江戸時代のものだろう。湯の峯へ向かう旅人を見守ってきた時間が刻まれている。
 足もとに里の音が聞こえ始めるともう湯の峯温泉だ。小栗判官が治癒した伝説のある「つぼ湯」のすぐそばへ出て、このコースは終わり。午前中だけの短い山行だったが、何百年も人が通った道の重みは感じられた。

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