Ich bin steindumm

2013/07/07 反逆者の妻

ニーナ・フォン・シュタウフェンベルクは1944年7月23日にゲシュタポに逮捕される。容疑は国家反逆罪。その前々日に彼女の夫はベルリンで同様の容疑で処刑されていた。ドイツ国防軍大佐クラウス・シェンク・グラーフ・フォン・シュタウフェンベルクは7月20日総統大本営ヴォルフスシャンツェ(「狼の砦」)で、ヒトラーを爆殺しようと計画し、時限爆弾のはいった鞄を会議室にしかけたが、失敗。日付が変わった深夜、ベルリンの陸軍参謀本部で銃殺された。この事件は暗い第二次世界大戦の記憶の中で、ドイツ人たちが唯一胸を張って語ることのできる「美談」であり、現在にいたるまでシュタウフェンベルクは「ドイツ人の良心」のシンボルである。「白バラ」のショル兄弟とならんで、シュタウフェンベルク大佐はヒトラーの恐怖独裁政治からドイツ民衆を救おうとした英雄なのだ。
 しかし彼の栄光が始まった日に、彼の家族には苦難の日々が始まった。彼は四人の子どもを残して世を去り、妻は五人目の子どもを妊娠していた。当時ドイツには犯罪者の「家族責任」(Sippenhaft)という法があり、シュタウフェンベルクの遺族も国家反逆罪の共犯者として逮捕された。妻ニーナ・フォン・シュタウフェンベルクもゲシュタポに逮捕され、厳しい尋問を受けた後、強制収容所ラーヴェンブルックに送られた。子どもたちは孤児院に預けられ、ニーナの母も強制収容所で病死した。シュタウフェンベルク
 これまでヒトラー暗殺計画の失敗の被害者として国防軍の将校や将軍たちが注目されるばかりであったが、暗殺者の家族のなめた辛酸については語られることが少なかった。2004年、事件後60年を記念してドイツのテレビ局ARDはシュタウフェンベルクのドキュメント映画を作ったが、そこでは彼の妻は凡庸で非政治的な主婦としてしか描かれていなかった。これにもっとも強く反発したのが、当のニーナである。英雄の妻は戦後慎ましく遺児の養育に身を捧げ、再婚することもなく、自伝を書くこともなく、2006年に93歳で亡くなった。映画は、暗殺計画については何も知らされず、夫の罪を背負って運命に翻弄されるがままの女性としてニーナを描いているが、実際はそうではなかった。彼女は夫が暗殺計画に加わっていることを早くから聞かされていたし、その意義も理解していた。国家への反逆が彼らの家族にどのような結果をもたらすかも承知していた。後に彼女は、夫から「(もしもの時は)子どもとおむつと汚れた洗濯物にかかりっきりの馬鹿で取り柄のない主婦のふりをする」ように言われたと語っている。家族にいかに大きな危険がおよぶかを軍人の彼が推し量れなかったわけはない。しかし決行するしかない計画だった。「失敗すれば国家に反逆することになるが、何もしなければ良心に背くことになる」からである。その良心とは国家に対するものだけではない。近年、友人のヨアヒム・クーンがロシア軍の取り調べでした証言で、シュタウフェンベルクがユダヤ人虐殺を知っており、それを「犯罪行為」とみなしていたことが明らかになった。彼のいう良心とは、軍人やドイツ国民であることを越えて、一人間として果たさなければならない義務だったのである。
 ニーナは出産までの五ヶ月を強制収容所の監獄で過ごす。フランクフルト(オーデル河畔)で娘コンスタンツェを生んだあと、ポツダムの病院に移されそこで終戦を迎える。
 ドイツ史を少しかじっただけの学者の中には、シュタウフェンベルクの行動を、「ドイツ国防軍の貴族的将校が独裁者に対して起こした覇権争い」で片付けるものもいる。しかしこうした斜に構えたコメントでは、国家と人道に示すべき「良心」とは何かを世に問うた、夫と妻の真意を理解することはできない。まもなく7月20日。来年2014年はふたりの決意から70年目を迎える。
参考:Der Spiegel 17/2008, p. 170-174.“Der Tragödie zweiter Teil“
    Peter Hoffmann: Stauffenbergs Freund, München 2007.

2013/07/06 中世の女性たち

 中世コロキウムももう4回目になります。今回は、比較文学的視点から、日本とドイツの中世文学における女性像を取りあげました。講師にアメリカの代表的ドイツ中世文学研究者である、アルブレヒト・クラースセン氏(アリゾナ大学教授・立教大学招聘研究員)をお迎えしました。
 前半の香田の発表『夢、魔術、狂気―中世の日本文学における女性のカリスマ』では、日本の女性史を紹介しました。日本史学者の網野善彦氏は、一般に知られている封建的な女性観が江戸時代以降のものであり、鎌倉・南北朝期の女性はわたしたちが考える以上に解放されており、自由な空間で活躍していたことを指摘しています。その中でも特に「旅する女性」は聖と俗を越境する存在として重要な役割を果たしています。寺社の権威に守られて巡礼者や職能民として社会に特別な影響力をもった女性たちには、マックス・ウェーバーがいうようなカリスマが宿っていたということができます。このカリスマに守られて女性たちは旅をし、芸能で身を立て、行商に従事できたのです。またこの女性のカリスマ性は、この時期に生まれた民間の口承文学で、「無縁」に落ちた主人公を救済する女性が発揮する力となって描かれています。
 後半のクラースセン氏の発表『ゴットフリートのトリスタンにおける女性の役割 ―愛と悲哀の力でヒロインがヒーローを追い抜く』では、西欧文化における女性の役割が論じられました。12世紀のフランス王妃エレアノール・ダキテーヌは夫を離縁するほどの女傑として知られていましたし、女性修道女ビンゲンのヒルデガルトは教皇から預言者の称号を得、自ら説教する資格を認めさせました。エレアノールはトゥルバドール(吟遊詩人)の保護者として有名ですし、ヒルデガルトは神学的著作や作曲を残すマルチ才女でした。また9世紀に生きたメロヴィング朝の大公妃ドゥオーダは息子のために道徳書(Liber Manualis)を書きましたし、ガンデルスハイムのロスヴィタはヨーロッパ最初の劇作家です。男性ばかりではなく、女性も中世文学で重要な位置を占めていたことがわかります。また英雄叙事詩は、その名前の通り、主人公である英雄をめぐる物語ですが、彼の愛と冒険は女性の主人公なしには語れません。たとえば、骨肉相食む親族の争いを描いた『クドゥルーン』では女性主人公は平和の重要さを説きます。また『トリスタンとイゾルデ』では、女性はその強い自意識で、英雄の生涯を左右する存在として描かれます。
 ディスカッションでは、西欧の女性像の規範となっているマリア崇拝と物語との関連や、西欧と日本においての女性の旅の意味の違い、日本の「無縁」と西欧のアジールの違いなど興味深い質疑応答がありました。
 先の網野氏は、「東西女性の独特なあり方をつきつめて解明することは、単に女性のみにとどまらぬ文化と社会の特質を明らかにする」ことだと述べていますが、今回のコロキウムをとおして、ドイツ文学研究の立場からそうした比較文化学の可能性を確認できたと思います。
 閉会後、クラースセン夫妻を囲んで参加者のみなさんと楽しい(やや遅めの)夕食会をもちました。御夫人のキャロラインさんは日系三世、クラースセン教授もアメリカ在住のドイツ人、ご親戚もすべて国際結婚をされているとうかがい、先生の自由な学風と闊達なお人柄もそうしたインターナショナルな環境から来ているのかもしれないと思いました。密室で窒息寸前の日本の大学にも racial and cultural diversity が必要だということかもしれません。
 帰路、満員の山手線の中で、今後も共同研究を続けていくことを約束して別れました。

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