Ich bin steindumm

2013/08/01 エックハルト幻影

 ディートマル・ミート先生から小さな冊子が送られてきました。先生は長らくテュービンゲン大学神学部で教えられ、マイスター・エックハルト学会の二代目の会長となられた方です。“Meister Eckharts Faszination heute“と題されたその本は、一年前のエルフルトで開かれた国際学会を記念して書かれた、先生のエッセーです。エルフルトはわたしが研究しているマイスター・エックハルトが少年時代を過ごし、大思想家への第一歩を記した町です。この町の歴史とエックハルトの著作『神の慰めの書』の間に緊密な関連があることを証明することが、わたしの博士論文の課題でした。「画期的」と意気込んで書きあげた論文でしたが、まったく注目されることなく、埋もれたまま18年が経ちました。しかしそれはやはり先駆的だったのかもしれません。18年間誰も手をつけなかったテーマが最近にわかに注目を浴びて、突然わたしがエルフルトに招かれて講演することになったのですから。前世紀(?)にそれも東洋人がそんな大それた仮説を立てていたことに、半信半疑の研究者も何人かいましたが、ミート先生と副会長のレーザー先生(アウクスブルク大学教授)は別でした。宗教の国際対話を強く推進する二人の学究にとって、エックハルトがドイツを越え、ヨーロッパを越えて、世界で読まれ、研究され、愛されることは、この思想家の普遍的価値を証明するものだからです。
 久しぶりにエルフルトを訪れ、18年の時間の流れを改めて実感しました。あの頃ドミニコ会教会は、東独の市民が暖房に使っていた褐炭の煤のせいで、まっ黒でした。それがいまはきれいな白亜のファサードを誇っています。いまは正面にでんと店を構える寿司屋も、当時はもちろんありませんでした。教会の内部もずいぶんきれいにリフォームされました。当時は一般に公開されておらず、礼拝にだけ利用されていたため、身廊や内陣は薄汚れ、古い漆喰の匂いが立ちこめていました。一人きりで薄暗い堂内にたたずんでいると、いまにもドミニコ会士が現れるような錯覚にとらわれたものです。
 ミート先生もそんな体験をされたのでしょうか。いただいた冊子には不思議な幻覚が綴られています。

 「エルフルトのドミニコ会教会を訪れるものは、内陣に1280年に作られた院長用の席を見つけることだろう。そこは1294年からマイスター・エックハルトが座った席なのだ。私が昨日の午後ドミニコ会教会に行ったとき、その席に年若い白衣の男性が座っていた。彼が身につけていたのは、ドミニコ会の僧衣だった。わたしは彼が若い修道士で、マイスターの席に座って感慨にふけっているのだろうと想像した。エルフルトにはご旅行で?どちらの管区からいらっしゃったのですか?と聞いてみた。すると彼は、わたしの時代のサクソニア管区ですと答えた。わたしは面食らった。わたしの時代って、どういうことですか?彼は微笑んで答えた。ここが故郷です。ここで学び、ここで修道院長をし、管区長をし、説教をしました。
 お芝居につき合わされているのだろうか?ひょっとすると、マイスター・エックハルトの足跡をたずねてといった、子供向けのシティーガイドの役者さんなのでは。そういえば新聞にそんな記事が載っていた。
 そうするうちにまた別の疑問がわいてきた。ドミニコ会の僧衣を着てガイドをするなんてエルフルトでは聞いたことがない。どうしてこんなことを思いついたのだろう。剃髪までして、頭の真ん中を剃りあげているし、ずいぶん手が込んでいる。若いのにこんななりでは、さぞ浮いてしまうだろうに。
 男は立ち上がり、わたしに温かい眼差しを向けた。それは穏和な高位聖職者に偶然会ったときによく経験するものだった。
 旅行ですって?と彼は言った。わたしの故郷エルフルトにですか?ここで町のためにたくさん説教をしました。わたしと話をするために皆さんもよく修道院にいらっしゃいました。議員や、市民や、敬虔な女性たちや、ベギン修道女といった方々です。わたしも皆さんのお話に耳を傾けました。わたしはパリ大学の先生たちの学説だけでなく、一般の方々の意見や疑問も引用し、パリの同僚たちとするように、彼らと議論しました。「生の達者」というのが皆さんからいただいた名前です。正しい生に人々を導く男、講義しかやらないパリ大学の「学者」よりも大切な人という意味です。兄弟のアポルダのディートリヒが、聖エリーザベトについて美しい絵を見せながら滔々と説いているとき、わたしも、真理と神の国はあなたたちの中にあると言いました。それをただ自分の中から取りだしさえすればよい、取りだして考え、感じさえすればよい、そうするかぎり誰も、地位や身なりに関係なく、皆ひとしく高貴だと。財産があっても、教養があっても、何をしたくて、何をやり遂げていても、それらのものに内側から距離をおき、放下していなければなりません。最近イギリス人が書いたものを読んだのですが、と彼はしみじみ言った。わたしの教えをデタッチメントと呼んでいました。いい言葉です。貼りついたものから剥がれるということです。
 イギリス人の作家も読まれるのですか、とわたしは驚いてたずねた。現代ドイツ語を話されますよね?ええ、と彼は答えた。天国にわたし用の閲覧室ができたとき、それは初めは、わたしに謙虚さを教えるための罰であり、教育でした。そこで、わたしを19世紀に再発見し、わたしについて書いた人たちが、ドイツ精神を標榜したり、異端者を追いかけ回したりしているのを読みました。わたしは「ドイツ的魂の産みの親」にされ、また「ドイツ的思弁の父」にされました。でも本当はわたしは、文化的にずっと進んだスペインのアラブ人たちのものを読むのが好きでしたし、ユダヤの哲学者マイモニデスのもちろん読みました。彼やエルフルトに住むユダヤ人たちから少しヘブライ語を学びましたが、語学コースもなかった時代のこと、大したことはありません。彼らは街中で別の言葉を話していました。
 今日わたしについて書かれたものは世界中に広まり、そのいくつかになるほどと感心したり、こんなことを考え書いたのかと、自分で納得したりもします。しかし、いろいろ論争もあります。わたしがキリスト教を新たに発見したように考える人や、わたしをヨーロッパの禅僧のように考えたり、また、神を否定した人たちの一人と考えたりです。
 そんなに世界中で注目されることは、謙虚であろうとされるあなたへの攻撃ではありませんか?わたしはちょっと皮肉をこめてたずねた。あなたはカトリック教会にとってもう異端者であるはずはありません。しかし別の人たちには「異端者」とは、宗教の選択を許すための名誉博士号なのです。わたしは異端者になろうと思ったことなどありません、と彼は答えた。わたしの思想が与えられた運命に従っただけです。そして、それはそれでいいのです。自分で説いた「放下」を、自分自身で学んだわけです。
 今わたしはエルフルトの人たちにとっても明らかに異質な存在になっています。そんな僧衣で町に出たら、誰だって驚くでしょう、とわたしは言った。ケルンやパリやストラスブールでならまだしも、エルフルトではもうこれは着ません。そして、オックスフォードや、シカゴや、マドラスや、東京や、ロンドンを歩くときもこの僧衣ではありません。わたしを新たに甦らせてくれるところでは、どんななりでもよいのです。なぜですかとわたしは聞いた。なぜなら、命はさまざまな見方に開かれているからです。わたしは気づいたのです。わたしと生きるものがあれば、わたしが生きるということを。
 ドミニコ会士の姿はだんだん透けていき、やがて院長席には花とろうそくだけが見えるばかりになった」(11-14頁)。

 ドミニコ会教会に現れた不思議なエックハルトの幻影は、わたしが博士論文で描いた彼の姿によく似ています。18年前には、彼が市会議員と交流があったことも、修道院を開放して市民に公開講義をおこなっていたことも、ベギンと呼ばれた半俗の修道女たちの指導を行っていたことも知られていませんでした。ミート先生が描かれた、エックハルトの生き生きとした表情の一筆が自分の仕事の成果だと考えると、嬉しいかぎりです。彼が真理を述べているということは、彼の思想に国境がないということです。エックハルトが僧衣を脱いで東京にも現れたのかどうか、それはこれから検証してみましょう。

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