Ich bin steindumm

2013/12/07 秘密と嘘 ―特定秘密保護法成立におもう

 授業で学生たちとフランツ・カフカの『審判』(あるいは『訴訟』)の最初の数ページを読み、その後彼らの希望通り、『アウシュヴィッツ解放の日に』というテクストを読み始める。ドイツ連邦議会議長だったヴォルフガング・ティールゼが2004年1月27日におこなった、ホロコーストの犠牲者を追悼する演説である。1945年1月27日はアウシュヴィッツ強制収容所がソビエト軍によって解放された日である。「人類史上最も凶悪で恐るべき犯罪」とティールゼが名づけたこの蛮行の犠牲者はアウシュヴィッツだけでも百万人以上、ヨーロッパ各地につくられた強制収容所では、ユダヤ人だけではなく、シンティ・ロマ(ジプシー)、同性愛者、捕虜、脱走兵、身体障害者、精神障害者、政治犯など、ナチスが独裁政治に都合が悪いとみなしたすべての人間が抹殺された。アンネ・フランクの忍耐も、教え子を移送から守ろうとしたコルチャック先生の努力も、「灰色のバス」への精神薄弱児施設の職員の抵抗も、たった一枚の命令書の前に無に帰した。突然何の理由もなく捕らえられ、連れ去られ、殺された彼らの恐怖が、それまで読んでいた『審判』のK.の体験とぴったり符合していて、ドイツ語を訳しながら無気味さを感じた。カフカは書く。「この男たちはいったい誰なんだ?何の話をしているんだ?どこの機関のものなんだ?K.は法治国家にいるんじゃなかったのか。平和があり、法が行きわたった社会で、いったい誰かが部屋に押し入って、襲いかかってくるなんてことがあり得るだろうか?」作家が1900年初頭に感じた漠然とした不安と不条理感は、その20年後ドイツで現実のものとなった。しかし、ファシズムの終焉とともにそれは終わったのであろうか。
 ヨーロッパとアジアでファシズムに勝利したアメリカは1950年代にはいると、次なる脅威と戦わなければならなくなっていた。共産圏による核の脅威である。核兵器の実際の使用者であるトルーマンは、手に入れた核の優位を守る絶対的使命を帯びた。合衆国全体が最高機密の保護に神経をとがらせ、国家の中に隠れ潜む共産分子の摘発に国中が躍起とり、いわゆるマッカーシズムと呼ばれる赤狩りが社会全体を疑心暗鬼に陥れていた。その矢先、トルーマンは核技術がソ連に流出したという報告を受けた。ロス・アラモスの研究所員クラウス・フックス博士から情報を盗み出したのは、ニューヨーク在住の親ソ分子たちであり、彼らの多くは15年から30年の実刑判決を受ける。この事件を今日まで記憶させているのはしかし、最後まで罪状を否認し続けた、電気技師ジュリアス・ローゼンバークとその妻エセルに対する死刑判決である。夫妻は3年にわたる法廷闘争もむなしく、1953年6月19日電気椅子によって処刑された。ローマ教皇や、アインシュタインを初めとする多くの知識人や政治家が嘆願書をアメリカ政府に送り、本国はもとより、オーストラリアでもロンドンでも世界各国で市民の抗議デモが起ったが、すべての非難を退けて死刑は強行された。
 このスパイ事件は、人権と、法の上での平等を考えるうえでさまざまな問題を提起している。第一に、近い将来ソビエトからの原子爆弾が頭上で炸裂するかもしれないという恐怖に煽られた世論が、犯罪者を「国賊」にしていったこと。第二に、マッカーシズムという国家公認の魔女狩りがローゼンバーグ夫妻に対する量刑を著しく重くしたこと。(裁判長自身、判決の読み上げの後に、「人類史上最も破壊的な武器によって自国を破滅させようとする、忌むべき犯罪であった」と個人的な所見を述べている。)第三に、トルーマンの後を継いだアイゼンハワー大統領の個人的性格が、恩赦の可能性を摘みとったこと。第二次大戦の英雄であり、反共主義者である彼は、朝鮮戦争で5万人もの死者を出した責任はローゼンバーグ夫妻にあると考えていた。こうした理性を失した叫びが、凶悪殺人犯でも、大量虐殺者でも、大統領の暗殺者でもない夫婦を死刑にしたのだ。「法」ではなく「情緒」が人の命を奪ったことは明らかだ。
 ローゼンバーグ夫妻が獄中から書き送った書簡がある。逮捕直後から、死刑執行の数時間前に、残された息子たちに書きおくった手紙まで、数百通に上る手紙には、裁判の不当性、死への恐怖、子供たちへの愛情、そして夫婦の愛が綴られている。外部と切り離された、死刑と隣りあわせの世界は、『審判』のK.が体験した不条理の世界を連想させる。妻の「アメリカはファシズムの国となり、強制収容所を準備している」という言葉に、夫ジュリアスは強く反応して返事を書き送る。「愛するエセル そうだ、民主主義を愛するすべての人と同じように、僕も法務省のやり方によって明らかにされているひどいファッショ的な傾向におどろき、怒りをおぼえていた。僕らが逮捕されてからというものは、ヒットラーやムッソリーニが権力を掌握した歴史と似かよった情況を目のあたりに見てきたのだよ。ある種の思想をもつ人間は、スパイを事とするものだという考えを人々の頭にうえつけるために、これらのデマゴーグたちは、僕らの事件を利用したのだ。[…]たえずふえてゆく逮捕、高額の保釈金、長期の刑や死刑さえもが、アメリカの国民をこのような状態に慣らすために利用され、こんなことはいまでは「日常茶飯事」にさえなっているように思われる。このことは、人々の精神状態を野獣的にするナチスのやり方を利用しているのだ。僕たちの国の憲法は、法による以外は変えることのできない、法の基準なのだ。それでこそはじめて、この国の人びとは国を支配する政治家の身がってな行為から守られるわけだ」(1951/6/22エセル宛書簡)。彼らが処罰されたのは1919年に制定された「スパイ活動禁止法」と、1946年の「原子エネルギー法」であるが、これらは「政治家の身勝手な行為」と結びつきやすい特殊な法律である。情報を隠蔽し、秘密を増やし、外部チェックを免れて活動する政治家は、いとも簡単に正義の味方に変身できる。十分な証拠をもたなくとも、「大逆」「不敬」と連呼して、罪なき人を重罪人に仕立てあげることができる。
 エセルは処刑の数時間前に書いた息子たちへの最後の手紙で、「自由をはじめ、人生を本当に満ち足りた、生きがいのあるものにしてくれるものはみな、ときにはとても高くつくものなのです。[…]生のために生を捨てなくてもいいほどまだ文明は進歩していないのです」と書いている。恩赦を拒否したアイゼンハワーは、この死刑が祖国アメリカを敵にまわそうとするものへの警鐘となるべきだと言っている。わたしには彼らにかけられた嫌疑の当否は問えないが、嫌疑のあり方は問える。いかなる場合も法を合法的リンチの道具にしてはならない。
 ルイス・ナイザー著『ローゼンバーグ事件の全貌』(文化放送開発センター出版)は、最後まで希望を捨てずに夫婦を電気椅子から救い出そうとした、弁護士エマニュエル・ブロックの献身とともに、夫妻の胸をうつ最後を描いた感動的な本だ。

2013/12/25 溺れるものと救われるもの

 不思議な旅行記を読む。孫娘が70歳を超えた祖母と大叔母を連れて、テレジーンに旅する。テレジーンはチェコの首都プラハの北西60キロにある町で、第二次大戦中はテレージエンシュタットと呼ばれ、ドイツ軍の強制収容所があった場所だ。旅をした三人はユダヤ系オーストリア人。祖母と大叔母はそれぞれ14歳と7歳の時にウィーンからテレージエンシュタットに移送され、解放されるまでの2年間収容生活を送った。
 ジャーナリストとなった孫娘はもちろん二人の過去を知っていた。84歳の現役の内科医である祖母は、「語り部」として学校で強制収容所の体験を子供たちに語って聞かせていたからだ。77歳になった大叔母は映画制作会社の社長で、フィットネスセンターで汗を流し、フランス語を学び、ピアノ教室に通っていつまでも新しい知識の獲得と新しい出会いに情熱を傾けている。歳を重ねるほどに輝く老人二人を見て、孫娘は自問する。二人はなぜ過去の暗い記憶にさらわれてしまわないのか。なぜ生きる喜びをもち続けられるのか。収容所からの生還者の中には、いわゆるPTSDとよばれる心的障害で、何十年も経ってから恐怖の記憶に苦しめられ、フラッシュバックや鬱病や睡眠障害に悩まされ、場合によっては自殺にまで追い込まれる人がいることはよく知られている。しかし、この二人の老女は生に対する絶対的な信頼の上に戦後の人生を築き、いまも生きている。なぜそれが可能なのか。自分の知る「歴史」と、彼女たちのした「体験」の間には大きな齟齬があるのではないのか。それを確かめるため、孫娘は二人を過去への旅に誘う。
 それは本当はずいぶん残酷な試みのはずだ。虐待された人を虐待の現場に連れ戻し、死の記憶を呼び出させるのだから。しかし二人は意外にもこの「久しぶりの家族旅行」の誘いに感激し、即了解する。
 テレージエンシュタット収容所は最初はボヘミアのユダヤ人を収容する目的でつくられたが、やがてヨーロッパ各地で捕らえられたユダヤ人を最終目的地アウシュヴィッツへ送る、中継地となった。ここで35,000人が殺され、88,000人がアウシュヴィッツへと移送され、そのほとんどが還ってこなかった。
 強制収容所跡に足を踏み入れたとき、祖母は「これこそデジャ・ヴュね」とつぶやく。夏草におおわれ老朽化していても、あの時の施設はやはりあの時のまま、70年の時を静かにやりすごしていた。ここがわたしたちの宿舎。ここが共同トイレ。ここが洗濯室・・・二人の姉妹はまるで故郷の生家を探すように、一つ一つ恐怖の記憶を確認していく。大叔母が預けられていた「子供部屋」もあった。そこはベルリンから連れてこられた、精神と身体に障害をもつ子供たちを特別に収容する施設だった。ある朝大叔母が目を覚ますと、彼女を除いてみな忽然と姿を消していた。
 かつて政治犯が収容されていた建物はいまはショップとカフェに変わっている。注文したサンドウィッチはパサパサに乾いていた。「ここでこんないいもの初めて食べたわ」大叔母はそういって笑い、「いまでも殺人都市ね」とつけ加えると、祖母は答える。「あの頃の人たちと違うわ。」
 祖母はトマトや豆やリンゴを植えた農場にどうしてもこだわった。資料館に残されていた地図からようやくその跡を見つけ出すと、二人は思い出を語りはじめる。姉はそこで育てた作物を密かに宿舎にもち帰り、家族は命をつないだ。農場での仕事は強制労働であったが、唯一アウシュヴィッツへの移送を逃れる手段でもあった。移送される予定が、偶然列車に乗り遅れた14歳の少女を特別に強制労働に雇ったのは、チェコ人の農場主だった。彼のおかげで祖母は生き残った。彼だけではない。道すがらオレンジをくれた婦人、食料を調達してくれた母の級友、かくまってくれたデザイナー、仕事と食料をくれたエナメル職人・・・祖母は、悪意の中でも善意を忘れなかった人たちのことを忘れない。二人が記憶から紡ぎ出す、ささやかなエピソードを聞きながら、孫娘は、こうした善意が二人に、命を生きるに値するものと確信させているのだと気づく。「運も偶然も運命の分かれ道になったろう。だけれど姉妹はもっと別の力が働くことを、自分の過去から学び知った。それはいまここで行動することだ。多くの人が為す術がないと感じる殺人システムの中で、二人に救いの手を差しのべてくれた人はいたのだ。」
 二人は絶滅収容所で奇跡的に生き残った「救われた者」だ。しかし彼女たちが本当に救われたのは、希望を失わず、戦後を生き抜いたからである。先にも書いたが、多くの生還者がこうした希望を取り戻せず、恐怖と屈辱から逃れられないまま死を選んだ。彼らはいったんは「救われたが」、その後「溺れた」。最終的に救われた者と溺れた者を分けたのは何だったのだろうか。
 プリモ・レーヴィは溺れた側に属する。彼はアウシュヴィッツから生還した後、そこで体験した死の極限状態を記録し、精力的に人類の蛮行を告発する著作を発表し続けたが、67歳で投身自殺をとげた。自著『溺れるものと救われるもの』で彼は、執筆を通して人類史上例を見ない蛮行の証人たることが生還者の使命であると述べている。いや彼は読者に、そして後世に判断を委ねる証人ではなく、自ら裁判官として被告席に座るドイツ人たちを裁こうとした。自殺の一年前に書かれたこの本はいままでにない厳しい非難の叫びに満ちている。それは作家自身が、まるで昨日のことのように甦る、収容所での恐怖と恥辱と不安と無感動にさいなまれていたことを物語っている。年を経ても忘却の彼方に去らず、ますます不信と怒りと絶望を呼び覚ます記憶に、彼の命は呑みこまれた。
 レーヴィは戦後作家として活動を開始し、解放されてから故郷へ帰るまでの旅を『休戦』(岩波書店)という書物にまとめた。アウシュヴィッツ体験から20年を経て記されたこの書物は、もちろん生と死の極限を生きた格闘の記録であるが、不思議と明るい調子に満ちている。その中に、帰国の途中ポーランド領カトヴィーツェで出会った、食料品店を営むドイツ人婦人のエピソードがある(p. 177-)。レーヴィらがアウシュヴィッツからの生き残りと聞いた老婆は、にわかに好意的になり、彼らを店の奥に通してビールをご馳走する。彼女はかつてベルリンで夫と一緒に店を構えていたが、ヒトラーを非難したかどで夫はゲシュタポに逮捕され、そのまま消息不明となる。やがてドイツがポーランドに宣戦布告すると、彼女自身も、人が多く死ぬから戦争をしないように、全世界を相手に戦っても勝ち目はないという手紙を直接「ドイツ帝国首相アドルフ・ヒトラーさま」宛に出す。もちろん氏名も住所も書いて。すぐにゲシュタポに捕らえられたが、「年寄りのばかな雌山羊」ということで絞首刑も収容所送りも免れ、ベルリンから追放されカトヴィーツェに流れ着いて、ここでこうして暮らしているというのである。シレジア地方は当時はドイツ領だったが、敗戦とともにドイツ人たちは追われ、ポーランドに再併合された経緯がある。その中でドイツ人として相変わらず店を構えることができたのは、彼女のそうした「市民の勇気」(Zivilcourage)を町の人がみな知っていたからであろう。
 こうした話をレーヴィは他のエピソードとともに淡々と語る。このドイツ人老婆の「武勲詩」に取りたてて感動した様子はないが、かといって無視もしない。死が常態化した世界から帰還したもの特有の無感動のせいかもしれない。しかし確かに彼はこれを記憶しておこうとしたのであり、善意が、それもドイツ人に存在したことを記録したのである。それから20年が経ち、彼の著作から信頼が消える。晩年の怒りに満ちた筆遣いに現れているように、彼は人間にそれでもわずかに垣間見えた善意を見る目をもはや失っていた。
 14歳と7歳の少女の体験と20代半ばの青年の体験は同じではあるまい。しかし問題はむしろ、体験の内容ではなく、その体験が記憶の中で加工処理されていく過程にあると思う。そこには年齢の差はなく、むしろどのように自分の生と、そして他人の生と向きあっていくのかという問いだけがある。レーヴィはそこで溺れるものの側に回った。
 テレジーンへの旅の終わりに、孫娘は祖母に最後の問いを発する。「よい体験と悪い体験とどちらをよく思い出すの?」祖母は答える。「それはお前が何を記憶するか次第だよ。」

参考Anna Goldenberg: „Das Leben danach“. „Zeit Magazin“ 51号(2013年12月12日)pp. 50-60より

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