Ich bin steindumm

2014/06/25 22人の怒れるスイスの女子生徒

 本の題名に「スイス」という語をいれると売れるという話を、ある出版者から聞いたことがある。アルプスや永世中立や赤十字やチョコレートといった、平和でのどかなイメージに自然と手がのびてしまうのかもしれない。おりしも今年は国交樹立150年目にあたり、日本とスイスの両方でいろいろなイベントが企画され、友好ムードに一層拍車がかかりそうだ。わたしがスイスに留学したのは1988年のことなので、もう四半世紀も前になる。「盟邦同盟連邦奨学生」と書かれた書類をチューリヒ空港の入国審査所で見せると、係員の態度が急に丁寧になったことを覚えている。フランス語ではコンフェデラシオン(連邦)と素っ気ない表現も、ドイツ語では「誓いを立て合った同胞の」とものものしい言葉になる。有名なウイリアム・テルの伝説にもあるように、ハプスブルク家の圧政に対抗した三つの州が文字通り誓いを立てて結束したのが、スイス連邦の始まりだからだ。暴君の圧政と戦った祖先の血を自分たちも受け継いでいるという自負が、戦乱の絶えなかった欧州で永世中立の道を選ばせた理由ともなった。独立不羈の精神を掲げてヒトラーのファシズムから国を守った将軍アンリ・ギザンは今でも国家的英雄だし、欧州経済の安定の象徴であるスイス銀行は国家の誇りである。しかしその反面、EUに背をむけて独歩する「わがまま」ぶりは、非難も呼んでいる。
  いまヨーロッパのかかえる大きな問題のひとつは2016年5月に解除される、ブルガリアとルーマニアに対する移民制限であろう。原則として、EU加盟国の国籍保持者は加盟国領域内において自由に労働、居住の地を選択する権利がある。2007年にEUに加盟した両国にも当然その権利が与えられるが、移動が解禁されると大量の労働者が経済水準の高い西ヨーロッパに経済移民として押し寄せることが予想される。ただでさえ高い失業率をかかえているフランス(10,8%)やイギリス(7,2%)やイタリア(12,7%)では、この移動の自由に制限を求める右翼政党が勢力を伸ばし、露骨に外国人排斥を叫び、「統一ヨーロッパ」の理念を脅かしている。EU加盟国ではないスイスも、協定に調印し人の自由な移動に合意してきたが、やはりヨーロッパで最も豊かな国を目指して押し寄せる移民の群れに脅威を感じて、2014年に国民投票をおこない、反対50,3%の僅差でこの合意を反故にした。しかしこれにはEUからの非難が集中した。失業率が3,2%と他国と比べきわめて低く(経済好調のドイツですら5,1%である)、国民一人当たりの収入も欧州でずば抜けて高く、かつ生産物の60%近くを欧州でさばいている国が、自分に都合の悪いことには耳をふさいでしまうことは、許されないからだ。貧しい外国人に豊かさの足をすくわれたくないという思いは、どの国も同じで理解できなくはないが、スイスに非難がとりわけ集中するのは、この国が第二次大戦中にドイツから亡命してくるユダヤ人を国境で追い払った、有名な「J・スタンプ」の過去があるからだ。
  ヒトラーの政権奪取後、庇護を求めてくる大量のユダヤ人たちに手を焼いたスイス政府はドイツ政府にユダヤ人のパスポートに大きなJのスタンプを押して、ユダヤ人とすぐに識別できるようにしてほしいと要請した。Jは「ユダヤ人」を意味する。交換条件は、アーリア系ドイツ人の査証なしでのスイス入国である。この1938年に始まった人種主義政策は、山岳地帯の小国家に政治的センスが欠けていたというだけでは済まされない、重大な結果を招いた。まるでカインの徴のような、赤いJのスタンプのパスポートをもった数万人のユダヤ人たちは国境で入国を拒否され、ファシズムからの逃げ場を失って強制収容所で命を失うことになったからである。パスポートにスタンプを押したドイツ人たちは戦後その咎を、無条件での難民受入という方法で償ったが、もうひとりの共犯者は罪から逃れた。
  第二次大戦中、スイスが特に経済面で積極的な対独協力者であったことはよく知られている。「凶悪なファシズム国家にはさまれて、山岳の小国家に他に何ができたというのか」というスイス人たちの言い分には確かに半面の真実があるが、もう半面に反省が伴わなければ国際国家としての信用を失うことになる。何もできないと言いつつ、自分の利益のためにうまく立ち回った政治家や企業家と対照的に、勇気をもって隣国のファシズムを非難し、ユダヤ人の救済を求めたスイス人たちもいたことを、2014年1月23日付のツァイト紙は伝えている。
  1942年9月7日ボーデン湖畔の小さな都市ロールシャッハの女子中学校の生徒たち22名が連名でベルンの中央政府に送った書簡は次のように始まる。「敬愛する連邦評議員のみなさん、わたしたちの学校では、難民たちがかくも無慈悲に悲惨さの中へ突き戻されているのを知って、みな激怒していることをお伝えせざるを得ません。」
ロールシャッハ  ドイツとオーストリアと国境を接する、スイスの中でも比較的インターナショナルな土地に育った多感な少女たちは、難民の悲惨な現実に接する機会も多かったのだろう。14-15歳の少女たちの書いた正義の手紙には心打たれるものがある。「『汝らの中の最も恵まれないものに行ったことは、わたしに行ったことなのだ』と言ったイエスの言葉をお忘れでしょうか。慈愛に満ちたスイスという平和の島が、震え凍える哀れな人たちをまるで犬猫のように国境へと投げ捨てるなどと、思ってもみませんでした。」「こうした人たちは、わたしたちの国に最後の希望を託したのではないでしょうか。それなのに、確実に死が待っている祖国に突き返されるなんて、何て残酷で恐ろしい絶望でしょう。」
  少女たちが「激怒」した理由は、哀れな難民が凍えていたからだけではない。彼女たちは、ナチスが行っている「最終解決」とは何か、東欧に移送されていったユダヤ人をどんな運命が待っているのかをメディアを通して十分知っていたからだ。そしてにもかかわらず連邦政府が、彼らを政治的亡命者として認めず、例外なくすべて門前払いで閉め出し、それどころか国内に潜伏するものを逮捕しドイツ側に引き渡していたことに、激怒したのである。手紙は、「ボートは満杯だ」という言葉で有名な連邦評議員のエドアルト・フォン・シュタイガーが受け取った。女学生の抗議を重大な反国家的行為だと考えた彼は即座に法律顧問に相談し、事実関係を調べるため、学生たちはもちろん、教師たちも尋問する。学生たちが誰に教唆を受けたわけでもなく、まったく自発的に手紙を書いて送ったことを知った教育委員会は、少女たちにこの件を口外することを禁じ、一件落着とした。
  大戦終了までにスイス国境で入国を拒否された外国人は3万人ともいわれている。もしスイス政府が少女たちの激怒に貸す耳をもっていたら、そしてもしJ・スタンプを無視する勇気をもっていたら、どれだけのユダヤ人が救われていただろう。絶望的な人々を前にして湧く、ごく当たり前の憐憫の情は、利己的な愛国心よりもずっと強く、国の品格を高めたはずである。

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