Ich bin steindumm

2015/02/28 京都大学の事件に思う

 京都大学に公安警察が忍び込んで、学生に取り押さえられたという記事を読んで、京都では1970年代で大学の時間が止まっているのではないか、と奇妙な感慨に襲われた。わたしが大学に入った頃はもちろん学生運動は存在感を失い、自治会活動は低迷し、いわゆる「しらけ」世代と呼ばれるノンポリ学生(この言葉も死語か?)が大勢を占めていた。しかしながら、友人の中にはまだ高橋和巳を相変わらず、ポケットに忍ばせ授業中に熱読しているものはいたし、彼のエッセイにある「清官は濁官よりも禍なり」という言葉を教師に投げつける雰囲気はあった。なにより東大全共闘の「力及ばずして倒れることは辞さないが・・・」という言葉には、何ともいわれぬ青年の客気のようなものが感じられた。しらけていたとはいえ、国家権力の暴力とは厳として闘うという正義感を、若者たちはある程度は共有していたのだ。怒鳴られるかと思いきや、意外と親切に声かけしてくる警察官にころりと騙されてしまい、DJポリスなどと名づけて友人のような親しみを覚えてしまう若者とはまったく別種族だったのだ。本当のDJはピストルなどもってはいない。権力とはきな臭い武器の臭いであり、昔の青年の純粋な鼻はそうした、大人の嘘を敏感に嗅ぎ分けた。

  修士課程で勉強していた頃、市の社会教育事業に協力して、市役所でドイツ語を教えはじめた。もちろん生徒は一般人で、駆け出しの学生教師には荷が重いが、やりがいのある仕事だった。ある日、授業に行くと見知らぬ男性が教室の隅に座っていた。歳の頃は40くらいだろうか、灰色の背広に身をつつんだ男の眼光は鋭かった。新しい受講者だと思い、どうぞみなさんの輪に加わってくださいと声をかけると、驚いたように左右を見まわして「俺がか?」と言った。無理やり生徒と座らされた男はふてくされたように、わたしをにらんでばかりいた。もちろんドイツ語のドの字も読めない。読むつもりもない。そうするうちに授業が終わり、生徒たちが一人二人と教室を出ていったのに、その男だけは相変わらず、ふんぞり返って、にやにやとこちらを凝視している。やがてわたしのところへやって来て、いきなり「おまえがYか?」とたずねた。いきなり「おまえ」呼ばわりされて面食らったが、どうやら男は間違えて教室に来たらしい。Yさんはわたしの大学の先輩で、中級クラスを担当していたからだ。否定するわたしに、「おまえがYだろ。調べはついてるんだ」と執拗に詰め寄った。男はYさんを追う刑事だった。Yさんはもの静かな秀才で、学生運動の分派に属していることは噂には聞いていたが、そうした雰囲気は大学では露とも感じることはできなかった。ただブレヒトの詩を朗読するときや、ビュヒナーの戯曲について語るときに、ほんの少しだけ彼の「熱さ」が垣間見れたくらいだ。それがこのとき、初対面の人間を「おまえ」と呼び捨てにする男を目の前に見て、わたしはYさんが暴力の世界と対峙する強い人だということを知った。
  人違いであることを知った刑事は、まるで大見得を切って空振りをした役者のように、きまり悪そうに引き上げていった。この事件をわたしはYさんには話さないでおいた。

  博士課程に進学すると、公安警察の犠牲者ともいえる人たちに何人も出会うようになった。相変わらずドイツ語市民講座を続けていた私のもとで、熱心に受講して下さったMさんは、ロシア語に堪能なソビエト通という経歴だけで、常に公安のマークがついていた。あるとき大学で殺人事件が起きたとき、まっ先に取り調べを受け、ポリグラフ(いわゆる「嘘発見器」!)にまでかけられた。もちろん彼は無実だったが、警察はMさんを本命視して、マスコミにリークしていたのだろう。真犯人逮捕の翌日の朝刊に出た顔写真はMさんだった。相手を学生と嘗めている刑事たちに、誤認逮捕のぎりぎりまで追い詰められたわけだが、Mさんはいたって気楽で、「無職なので、新聞社から慰謝料100万円をもらえて助かった」と笑っていた。

  Bさんは在学中、学生運動の純粋な闘士だったが、公務執行妨害で逮捕。刑事に、「これ君でしょ」と正門前で投石している写真を見せられ、退学。結局前科は重く、市の清掃局にしか就職口はなかった。クラシック音楽を愛する、普段はもの静かな先輩だったが、お酒が入るとときどき言いようもなく荒れた。当時大学からは闘争に向かう活動家たちを乗せるバスが定期的に出ていたが、出発日には必ず大学の職員が管理棟の屋上にのぼって、望遠レンズで学生たちを撮影していた。誰にその写真を売るつもりだったのか?
  夜の大学構内は公安警察の草刈場だった。深夜に勉強を終えて、研究室を出ると、いたるところで目つきの悪い男たちが立て看をメモしていた。学生運動の動向を知るためだ。あるとき、その一人に声をかけられ、「バイトあるんだけどやらない?」と誘われた。撒きビラを集めてほしいというものだった。もちろん断った。80年代の大学には警察権の濫用に対抗する力はもう失せていた。

 他にもアルバイト先の製材所で知り合ったOさん、「人間牧場」で集められたしずかな青年は高田博厚の『分水嶺』の愛読者で、きつい労働の合間に、この破天荒な彫刻家とロマン・ロランの交流について熱心に語ってくれた。また、よく通った禅寺の雲水はある夜寝がけにわたしの部屋にやってきて、学生運動での挫折について語ってくれた。「記念に」と言ってくれた遠藤誠弁護士の本には、「遠くからまたもや軍靴が聞こえる」と記してあった。

  学生相手に凄んでみせる刑事たちに共通するのは、学歴に対するあからさまな悪意と、強きを助け弱きを挫くという態のいい正義感とご都合主義だった。こうした連中に、若い人の純粋な芽が摘みとられたことは実に残念だ。
  いま、立て看も自治会もない大学に勤めているのだなと、あらためて気づかなければならないほどノンポリになってしまった自分を見て、志に殉じた先輩たちに申し訳ない気がする。もう彼らとは想い出のなかでしか会えないのだろうか。京都大学の方たちには頑張っていただきたいと思う。

 

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