Ich bin steindumm

2015/05/01 「いのちの電話」を辞める

 春になると新しいことを始めてみたくなるものだが、こちらは長年携わってきたボランティアの「いのちの電話」を辞めた。正確には「自殺防止 いのちの電話」。自殺を念慮して、にっちもさっちも行かなくなった人の最後のセーフティーネットだ。
  1年7ヶ月もの長い研修を終えて、電話相談員の資格をえたことが懐かしく思い出される。あれは2002年。もう13年も続けたことになる。ノルマは週1回、センターの電話でかけ手の悩みを聞いてあげること。仕事を終えて夕食もそこそこに駆けつけて、夜の10時まで電話口に座った。そのうち勤務先も忙しくなり、月2回ですむ「深夜帯」を希望するようになった。夜10時から翌朝8時までの長い仕事だった。途中3,4時間ほど仮眠をとり、朝8時に当番が終わると、寝不足で朦朧としながら、そのまま授業にむかった日々が懐かしい。(学生のみなさんごめんなさい。)センターを出るとそこはさっきまでの暗い相談内容とはうって変わった明るい朝日の世界。サラリーマンやOLに混じって職場に向かうバスの中で、この中にさっきまで僕と話していた人がいるのかもしれないと思うと、世界は別のものに見えた。
  電話は深夜でもひっきりなしにかかり、受話器を置く暇もなく、次の相談が始まることもたびたびあった。時には、「いま睡眠薬を呑んでいるんです」という緊急電話もあって、説得する手に汗がにじんだこともあった。相談員の多くは主婦の方々だったが、中には僕と同じような勤め人もいた。何が彼らをこの過酷で責任の重いボランティアに突き動かしたのかはわからない。
  相談員はメモはとれても、それを保管することは許されない。退出するときすべてシュレッダーにかけてしまう。だから何百本もとった苦しみの電話は僕にはもうほとんど記憶には残っていない。しかしわずかに思い出すものもある。
  ある日の日記には次のような記述がある。「その男性は切り出しにくそうな小声で話し始めた。娘が家の金を持ちだして家出してしまった。行き先はボーイフレンドのもとらしい。相手の実家に電話をかけてみると、「誘惑したのはお宅の娘のほうだ」とけんもほろろに対応されたとのこと。それだけなら娘の非行を案じる父親だが、しばらく会話を続けるうちに、彼が5年前に離婚して、上の娘を引きとり、下の娘を妻が引きとったことを知る。家出したのはしかし下の中学生の娘。なぜ妻のもとにいるはずの娘のことを心配するのか。男性は妻からこの子を奪いとったのだという。元妻は離婚して愛人のもとに走ったが、この男がどうやら下の娘に性的暴行を加えていたらしい。母親の留守中に義父となった男と娘が裸でいるところが、近所の人に目撃されていた。当時小学校高学年の娘には義父のいやしい欲望の意味がよくわからなかったのだろう。実父は即座に娘を取りもどすが、娘の心には大きな記憶の傷が残った。そして親子三人の生活は元には戻らなかった。たとえ母の愛人であっても父は父、それが実の父への不信感にもつながっている。親の愛はことごとくはねつけられる。思春期の娘の大人の男への不信感、そして純粋な愛への憧憬。男性は、実の娘を他の男の性欲から守ってやれなかったことを悔い、自分に憤り、絶望したという。無力感と情けなさ。しかし娘には、父の勇気と無骨な愛を忘れないでほしい。上の娘(姉)を通して彼女との連絡はまだある。これを絶やさないこと、そして何より「お父さんは何があってもお前の味方なんだ」というメッセージを娘に発し続けてほしいと伝える。」その娘はもう成人して立派な女性になっているはずだ。父の愛に気づいて、幸せな人生を歩んでいるのだろうか。
  失恋、不倫、窃盗、売春、レイプ、児童虐待、薬物依存、不登校、離婚、リストラ、借金、家庭不和、DV、リストカット、自殺未遂、殺人・・・夜の虚空の闇から聞こえてくる声の物語は、地を這うような悲痛なものばかりだったが、それに何とか寄り添おうとした。相談員は、人の心の苦しみを聞くために大変な訓練を受けて、「寄り添う」ことを学ぶ。それは説教することではない。「それくらい大丈夫ですよ」と励ましたつもりでも、相手には「そんなちっぽけなことで悩んでいるのか」と聞こえてしまうこともある。ある男性の相談者は10年間引きこもった末、テレビでも有名な繁華街をパトロールしてまわる「先生」にせっぱ詰まって電話をかけたそうだ。しかし少年少女を非行から救う自称教育者から受けた言葉はほとんど罵倒にも近い言葉だった。「お前のような引きこもりは人間ではない。」「わたしと話をしたければ、段ボールをもって路上生活をしろ。冬に家に帰れない高校生はたくさんいるんだ。」「お前のように母親のすねをかじって生きている人間と話すことなどない。」「段ボールで寝て、公衆電話からかけてくるんだったら、もう一度聞いてやる。」この自称「先生」は世直し奉行にでもなったつもりでいるのだろうか。テレビカメラの前でいい格好をするのは簡単だ。しかし深夜まで、派手なパフォーマンスとは無縁に電話を受けている人たちが日本中にたくさんいて、そうした人こそ本当の救世主なのだ。
  相談者の圧倒的多数は女性たちだった。育児疲れが問題化したときの記録が日記にある。「子供が知的障害者。ウンコを食べる。ウンコがこびりついている。そこら中ウンコ臭。ウンコを食べた口にさわれない。私まで汚れた気分。外で子供が、「虐待されている」と嘘をつく。疲れた。施設に預けたら、可愛そうになりすぐ引きとった。本当に可愛そうなのは私。預けると罪悪感に苦しむ。子供のことが本当は好き。成長をいつもみていたい。頑張ろうという気があるけれど、でも体がついていかない。夫は協力してくれない。無関心で、事あるごとに「だから産むなと言ったんだ」と言われて殴られる。相談できる親もいない。将来のことを考えると、死ぬことを考える。体重は38キロまで減った。頑張っても希望がもてない。」この女性を僕は何と言って慰めたのだろうか。
  同じく子育てに疲れて、虐待を始めたという母親と口論になったことがある。最初はあった罪悪感がやがて快感に変わるというのを聞いて、それは問題だと反論したら、言い合いになった。電話相談ではそうした対応は好ましくないが、やはり黙ってはいられなかった。「子供を育てたことのない男の人にはわからない」といって電話を切られた。確かに子育ての主役は女性だ。しかし脇役のほうがストーリーをより良く見わたしているということもある。いまの僕ならきっと坂口安吾のように、「親がなくとも子は育つ。親がなければ子はもっと育つ」と言えるだろう。
  暴力の渦中にあって加害者なのか、被害者なのかわからなくなることはよくある。夫に日常的に暴力をふるわれている女性の電話はたくさん取った。ある女性は、DVに馴れてきた自分を冷静にみつめていたが、それは危険な自己観察でもあった。「殴られていて、殴っている相手がかわいそうになってくる。この人はこんな人生しかもてなかったんだと思えてきて。」そんな男に同情の余地はない、さっさと逃げなさいとアドバイスしたはずだ。
  殴っている男からの電話もあった。
「俺は筋金入りのDV亭主なんだぜ。俺が帰ると犬なんか、怖がって洗濯機の下に逃げこむんだ。」
  ―でも犬にDVするんですか?
「そんなわけないだろう。もちろん妻さ。俺が帰ってから、食事の支度なんてしやがるもんだから・・・頭きちゃうよな。一日家でごろごろしているくせに。」
  ―奥様、専業主婦なんですか。
「そう、俺が食わしてやってる。」
  ―家事ができない理由でもあるんじゃないんですか。
「俺が怖くて、帰ってくることを考えたら、何も手につかないんだとさ。」
  ―じゃあ、優しくしてあげればいいんじゃないんですか。
「え?」(その後ひとしきり暴力論をぶったあと、相談者は黙りこくなった。そもそもなぜここに電話してきたのか。)
  ―その後、お食事にいらしたんでしょ。
「ああ。」
  ―どうして?
「・・・妻が犬抱いて、小さくなっているのを見たら、何にも言えなくなってね。そうしたら、妻が寿司が好きだったことを思い出したんだ。初めから、外で食べることにすればよかったな。何を意地になってたんだろう。夕御飯なんて、別に家で食べないといけない訳じゃないのに。」

  通話は1,2時間、時には朝までかかることもあった。お互い出口の見えない話のようだが、対話することで方向が見えることはよくあった。
  景気が悪く労働者の不当解雇が社会問題となった頃には、リストラされた男性からの相談が相次いだ。ほぼ僕と同い歳くらいの人たちが社会から見捨てられ、行き場を失い、男としてのプライドを失ってさまよう姿には心痛んだ。僕はハローワークにも行ったことがない。社会人といいつつも、低い経験値しかもたない自分を恥ずかしく思った。
  その頃に秋葉原の通り魔殺人事件が起きたが、これもリストラ波と連動していることを電話の声から知った。犯人はやはり工場の派遣社員。多くの失業者が「犯人の気持ちはわかる」と語ってくれたが、それでも「あれは許されないことだ」と逆に憤慨していたことを思い出す。男の本当のプライドとはこうしたものなのだろう。
  こんな相談もあった。「引き籠もりニートの青年。どこに行ってもここは自分の場所ではないという気がして、転々と職を変えてしまう。ある日ふらりと町の公民館に出かけてみた。何かの作品展。もう閉館の時間を過ぎている。80くらいのおじいさんがいた。帰ろうとしていたが、「あなたが来たのなら案内しますよ」といって居残ってくれた。自分のために人が何かをしてくれたことなど何年ぶりだったろう。高校の元美術教師。そこにあるのは教え子たちの作品。老人について絵を見て回っているうちに、こわばっていた心がほどけた。人のことを思いやる人の背中を見て。」


 思い出すまま書くうちに、あの夜の感情が甦ってきて辛くも嬉しくもなる。どんないやな内容の相談でも、こちらからは切らず、最後まで聞き通した。そうするうちにその夜一晩くらいは乗り切れそうな落ち着きがかけ手の声に現れることが多かったからだ。人助けというほど大袈裟なものではなかったが、安定剤くらいの意味はあったろう。相談員を始めた頃の日記に、「カビ臭い部屋に閉じこもった生活から抜け出したい。子供相手に親分風を吹かせるような連中との腐れ縁を断ち切って、この世界の現実を見てみたい」とある。それは今でも変わらない。ではなぜ辞めたのか。一番の原因は相談内容のほとんどが精神疾患(鬱病・統合失調症)に関するものになり、自分の無力さを痛感するしかなくなったことがある。心の痛みを精神医学の症状に読みかえて、薬物を与えて緩和するようになったことで、臨床医でもない僕には、「痛みに寄り添って」聞くことが不可能になった。電話口から聞こえる「病人の声」にこれ以上つき合うことは無理だと感じ、卒業することにした。
  13年間に僕自身の身辺にもいろいろな変化があった。「禍福はあざなえる縄の如し」というが、不幸に向き合う勇気をもらったのが、「いのちの電話」を通して出会った名も知らぬ人たちであったことは確かだ。思いのたけを聞いていただいたのはこちらだったのかもしれない。

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