Ich bin steindumm

2015/06/29 池田の猪買い

 上方落語の名作に「池田の猪買い(ししかい)」というのがある。「わたい」と名のる男が、大阪の丼池(どぶいけ)に住む甚兵衛に教えられて、池田の猪撃ち六太夫のところまで猪の肉を買いにいく途中でしでかす珍道中を描いた話だが、池田のとなりの箕面(みのお)で生まれ育ったわたしにはこの話はとりわけ身近に感じられて楽しい。「わたい」が教えられて歩く道のりも、今は大阪の船場界隈に住むようになった母を車に乗せて箕面に向かうときに使う旧街道で懐かしい。「丼池筋を北にどーんと突き当たる」「突き当たったらデコチンうちますがな」という有名なくだりから、十三(じゅうそう)橋、三国橋をわたって服部天神を越えていく道行きの描写は、聴衆を一気に北の旅に引っ張っていく臨場感がある。北摂は大阪市内とは違って寒い。途中からずいぶんな雪に降りこめられて、ただですら人里離れた田舎道を歩く「わたい」はだんだん心細くなってくる。落語の中では池田は山と畑しかないように描かれるが、実際はここは北摂のなかでもずいぶん開けた町だった。
  大阪の人に「お生まれは?」と聞かれて、「箕面です」と答えると、十中八九は「サルや」という答えが返ってくる。猿山くらいしかめぼしい観光産業がない箕面と違って、池田はお殿さまをいただいた、れっきとした城下町で、小高い五月山の上にはその昔、城があった。栄町商店街は昔はこの地方一の賑わった商店街であり、また町のいたるところにある明治・大正・昭和の史跡はここが北摂の経済と文化の中心地だったことを示している。箕面と宝塚に電気鉄道をひいた阪急電鉄の小林一三がここに居を構えたのも、そうした歴史があってのことなのだろう。
  やはり箕面出身のわたしの母にとっても池田は特別な町だったようで、子供の頃この町へ買い物に来た話をよく聞かせてくれた。その中でも忘れられないが、今も呉服橋のたもとにあるうどん屋「吾妻」だ。
  母の一家は毎年年の瀬にこの町の瀬戸物市に来るのを楽しみにしていた。当時は食器は縁起物で、お茶碗は毎年新調することになっていたそうだ。猪名川の堤には、大きな芝居小屋「呉服座」があり、旅の一座が幟を立てていた。今でいうバスターミナルが橋のすぐそばにあり、バスでやって来た一家は、栄町商店街で新年の買い出しをして、呉服座で芝居を見て、「吾妻」でうどんを食べて、年の瀬の慌ただしくも心楽しい時間を過ごした。
  時がたち、芝居小屋はいつか消え、栄町商店街もシャッター商店街になり、バスターミナルもなくなったが、「吾妻」は昔ながらの面影を残して今もある。雪に降りこめられて凍えた「わたい」もここのうどんで暖をとったかもしれない。こんな想像をしてしまうのも由ないことではない。おそらく「吾妻」が呉服座の旅芸人たちの憩いの場所になっていただろうからだ。江戸時代からあるこの老舗に、裏手で興行を終えた芸人たちがうどんをすすりに来たとしても不思議ではない。そして北摂一の芝居小屋を訪れた噺家がここで池田の小咄を思いついたとしても不思議ではない。「池田の猪買い」を得意とした桂米朝もこの店をひいきにした。彼は一門を連れてよくこの店の名物「ささめうどん」を食べに来た。ささめうどんは、(わたしの記憶が確かなら)、生姜をすった出汁で食べる素朴なうどんだが、からだが温まり美味しい。小さな店の中には小さな座敷があり、師匠と弟子たちはここでうどんをすすり、酒を飲んだ。遠い記憶のなかで、かつて一度元気のよい一団に居合わせたことを思い出す。賑やかなあれは米朝一門の笑い声だったのかもしれない。もしかしてそこには桂小米と呼ばれた、若い枝雀もいたのだろうか。
  米朝さんといいながら、枝雀と呼び捨てにできるところにこの噺家の凄味がある。「米朝さん」と呼ぶとき、そこには上方落語の総帥であり、人間国宝の桂米朝がいる。彼を落語の登場人物と取り違えることはない。彼は芸を操る匠で、けっして芸に身を乗っ取られたりしない。しかし枝雀はまるで何者でもないかのように、すべての人格になり変わる「記号」のような存在だ。彼は、自分が演じるエキセントリックな愚か者、間抜け、いちびり、いらち自身になってしまい、今ここにいるのが枝雀本人なのかどうか見分けがつかなくなる。彼の落語はまさに憑依のような凄味をもって迫ってくる。「さん」づけで距離をとることすら出来ないほどに。
  米朝さんが亡くなったと聞いて、何か言いしれぬ寂寥感に襲われ、枝雀の独演会のテープを取りだして聴き始めた。米朝さんが亡くなったことは上方落語に、ある一時代が終わったことを表しているのだろうが、それは長いエピローグの終わりであって、本編はすでに枝雀の死とともに終わっていたのではないだろうか。米朝さんの噺は端正で、そつなく、上品という言葉につきる。彼のような噺家はこれまでにもいただろうし、将来も出てくるだろう。それは彼がある種の「名人の範型」であり、それがプラトンのイデアのように、何度も何度もこの世に現れるということなのだ。第二の米朝がいるということは、人類にとって、芸術にとって救いである。それに対して枝雀は名実ともに、不世出の天才、落語界が後にも先にも一度だけ経験した「星の時間」なのだ。第二、第三のモーツァルトの出現が不可能なように、桂枝雀も一度きりの事件にちがいない。わたしにとって米朝さんは人間国宝であると同時に、180度違った弟子の才能を見抜いて、枝雀という天才に育てあげという点で偉大だったのだ。そして彼がいなくなったということは枝雀もやはりもういないのだということを受け入れなければならないから、辛いのだ。
  今一度「池田の猪買い」を枝雀で聴いてみると、たった20分そこそこの小咄が、まるで叙事詩のような迫力をもって迫ってくる。主人公が一人称しか名のらないことは、枝雀にとって好都合だったかもしれない。「わたい」は早々と枝雀にのりうつる。彼が道々で出会う人々、しでかす珍問答は3D画像のように奥行きと色彩を得て、世界を広げていく。枝雀が内面につくりあげたリアリティーが噴火のように一気に吹き出すのだ。物語の最後、「あの白壁の松の木のあるあたり」と牛飼いが指さす方向に、池田の風景があり、「吾妻」が見えるような気がする。

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