Ich bin steindumm

2016/04/20 そして先生は声をひそめて言った

 慶應義塾大学の文学部は昨年開設125周年を祝い、いくつかのイベントが催されたが、そのうちのひとつに「井筒俊彦展」があった。井筒俊彦は慶應大学で教鞭をとり、またテヘランのイラン王立哲学研究所で教授を勤めた、我が国におけるイスラーム学の第一人者だった人だ。イラン革命でテヘランを去り、帰国を余儀なくされるが、それは日本にとっては幸いだった。その後出版された、『意識と本質』(岩波書店)にわたしは大学院生の頃出会い、むさぼるように読んだ。言語哲学を通して、イスラームの神秘思想と東洋の無思量を交差させる壮大な構想に圧倒された。何度読み返したかしれないが、その情熱が通じたのだろうか、ある日通りがかった古本屋で平積みされている古書の中に、彼の処女作『神秘哲学(ギリシアの部)』の初版本を見つけた。余談だが、この本屋には以前、杉田玄白の『解体新書』初版本が埃をかむっていたという噂があった。そこまでの稀覯本ではないが、昭和24年、光の書房という無名の書店から出た本も井筒の世界的知名度からすればずいぶんな見つけものだったろう。店の奥から出てきたおばさんに、おそるおそる値段を聞くと、箱入りの本はこうやって出すのよ、と本を振ってみせてくれたが、運悪く箱がわずかに傷ついてしまった。それを見て、やれやれといった調子で、「800円でいいわ」と言った。もちろん購入した。
    『神秘哲学』は井筒が戦前、助手時代に慶應でおこなった講義を、光の書房の上田光雄が是非にと懇願して単行本にしたものである。20代前半の若い研究者らしい、熱のこもった語り口、ダイナミックな論展開などは後年の井筒のスタイルをすでにもっているが、彼はこれを結核とたたかいながら書いた。敗戦色の濃くなるなか、また自身の健康も悪化するなか、名実ともに命とひき換えに思惟を文字にしたのだろう。とりわけ後半の付録「ギリシアの自然神秘主義」には、次のような序がある。「いまから数年前、私は慶應義塾大学文学部に於て、ギリシア・ラテンの古典的教養を欲するごく少数の学生諸君のために、ギリシア神秘思想史と題して特別の講義を行ったことがあった。最初の計画では、ソクラテス以前の自然学から神秘体験の系譜をたどりつつプラトン的愛の神秘主義とプロティノス的一者の形而上学を主として考究する積りであったが、不幸にして当時学内一般の民族主義的思潮はかかる純超越的観想をこころよしとせず、加ふるに日米間の情勢は頓に緊迫し内外の風雲急を告げて、大多数の学徒が業半ばにして動員さるるに及び、わたしはこの計画を中断するの止むなきに至った」(353頁、旧仮名遣いを新仮名遣いに改めた)。ホメーロスの抒情詩がソクラテス以前の自然学に移行する際に、自然神秘思想を経由したという大胆な仮説を論証しようとした壮大な試みは、狭隘な大東亜思想によって踏みにじられ、学徒動員によって、聴講した学生までも奪われた。愚劣な戦争遂行者たちにギリシア哲学の神髄がわからなかったのは当然であろうが、わたしの勤務する職場も当時、「民族主義的思潮」にすっかり冒されていたというのには、背筋が寒くなる思いがする。井筒俊彦もそれに抗するには無力すぎたのかもしれない。意思を口にすれば「造反教員」として大学を追われただろう。彼は原稿を、「筐底(きょうてい)深く蔵して蠹魚(しみ)に委せ」た。
  学内報『塾』特別号(289号)は、戦後70年を記念して学徒出陣についての次のような記事を掲載している。「文部省は10月21日に、雨中の明治神宮外苑競技場において東京周辺の出陣学徒を集めて「出陣学徒壮行会」を挙行したが、義塾でも11月23日に三田山上で塾生出陣壮行会が行われ、約3000名の出陣塾生が参加した。出陣塾生は出陣壮行歌、応援歌を合唱後、福澤諭吉の墓参に向かった。翌1944年、さらに45年4月入隊の塾生を含めて、出陣学徒生は約3500名と推測されている。現在までにわかっている範囲で、在学生のおよそ385名が戦没している」(3頁)。この中に井筒の講義を聴いていた学生はいたのだろうか。もしいたとすると、講義の続きを聞くこともなく、また戦後この本を読むこともかなわなかったことになる。いや、385名すべてが何かを措いて、ふたたびそれをとることはなかったのだ。そうした戦場に散った若者の無念さは察するに余りある。
  しかしその一方で気になるのは、当時学内で一般だったという民族主義的思潮を鼓吹した教員がだれで、それがどのような結果を招いたのかという具体的な事実だ。もちろんそうしたことは125周年記念事業には乗せられはしなかった。
  エーリヒ・マリア・レマルクの『西部戦線異状なし』には、ギムナジウムの学生を引き連れて徴兵場に行ったカントレック先生の話が出てくる。愛国意識を鼓舞して学生たちに、「もちろん君たちも行くだろうな」とつめ寄った男が、自分は国民兵として安全な内地に残り、ベテラン兵士となって帰ってきたかつての教え子にからかわれる場面は滑稽だが、話の核心はもっと深刻だ。教師こそ、若者の戦争の始まりだからである。1930年に公開された映画では、教師の愛国演説に狂喜乱舞した学生たちが勇んで出征していく様子が描かれるが、原作では学生たちは最後まで志願したがらない。しかし一人また一人と志願していくなか、「卑怯者」呼ばわりされることを恐れる青年たちはしかたなく署名する。皮肉なことに最後までしぶったベエムという青年が最初の戦死者となる。青年たちは野戦に出て、戦死者を見、野戦病院の惨状を見ればたちまち、国家に対する義務以上に死に対する恐怖のほうがもっと切実だと気がつく。しかしひとたびはまってしまった泥沼から抜けでることはもう不可能なのだ。幸福な学生生活をともにした学友は次々と戦場に倒れ、主人公のパウル・ボイマーもやがて戦死する。彼は言う。「(教師とは)ぼくたち18歳の少年を大人の世界に仲介してくれるものであり、労働と勤労と文化と進歩と未来への案内人になるべき人たちだった。ぼくたちは彼らをよく馬鹿にし、からかいもしたが、心のなかではやはり信用していた。こうした連中の権威には、もっと大きな洞察力と、人間的知性が備わっていると信じていたのだ。けれどもこうした確信は、最初の戦死者を見たときに砕け散った。ぼくたちは自分の歳の方が、大人たちの歳よりももっと信頼できることを思い知った。・・・けれども今となっては、ぼくたちはもう別人になったのだ。急に目が開けた。そして見たのは、大人の世界から学ぶべきものは何もないということだった。そう考えると急に恐ろしくなった。すべてを自分たちで解決しなければならないのだから。」若さゆえに目が開かれているということは十分ある。若者が大人の嘘に気づいたときは時すでに遅く、騙した大人にはたいした良心の呵責もなく、愛国談義に花を咲かせるばかりだ。レマルクの小説は国境を越えて共感を呼び、アメリカで映画化され、アカデミー賞も取ったが、それが災いしてナチの宣伝相ゲッベルスににらまれ、『西部戦線』は焚書にふされ、レマルク自身もスイスに亡命する。ゲッベルス自身は身体の障害ゆえに出征したことはない。若者の悲痛な不戦の叫びにまじめに耳をかたむける大人たちが、たった10年やそこらで消え失せたということだ。
  あまり知られていないが、壺井栄の『二十四の瞳』もれっきとした反戦小説だ。小学生の頃、少年少女文庫に入っていたこの小説を愛読したことを思い出す。不思議なことに、子供のわたしはこれが反戦文学だとは気づかなかった。無理もない。それは少年向きに物語の前編だけを編集し、後編の教え子が出征し戦死したり、零落した家の娘が遊女になったりする場面をカットした縮小版だったからだ。小学生が、のどかな瀬戸内の小島ですくすく成長する12人の子供たちの物語だと勘違いしても仕方がない。しかし、終戦後まもなく出版されたこの物語は、声高な反戦を訴えるプロレタリア文学ではないが、夫繁治が治安維持法で投獄されていた作者が、戦争の終結を待ちに待って、戦時下の想いを書き下ろしたものなのだ。物語は、小豆島の小さな分教場に赴任してきた大石先生が出会った一年生との交流を描いている。天真爛漫な小学生たちも、金融恐慌や治安維持法や満州事変、上海事変といった時代の荒波にもまれ、やがて思いも寄らない人生を歩むことになる。小さな島からも徴兵されて多くの若者が出征する。大石先生の教え子5人も徴兵検査に合格し、入営することになる。皇軍の兵士になることに誇らしげに語る教え子たちに、先生は声をひそめて、「名誉の戦死など、しなさんな。生きてもどってくるのよ。」と言うと、彼らはまるで小学生の時のように素直になってうつむいてしまう。しかし彼女にはそういうのが精一杯で、結局5人のうち3人は戦死し、帰還した一人も盲目となっていた。大石先生自身、夫を亡くし、末娘を食糧事情の悪さで失った。印象深いのは、彼女がそうしたことに大きく心動かされる様子もなく淡々と戦中戦後を生きぬく姿である。「いっさいの人間らしさを犠牲にして人びとは生き、そして死んでいった。おどろきに見はった目はなかなか閉じられず、閉じればまなじりを流れてやまぬ涙をかくして、何ものかに追いまわされているような毎日だった。しかも人間はそのことにさえいつしかなれてしまって、立ちどまり、ふりかえることを忘れ、心の奥までざらざらに荒らされたのだ。荒れまいとすれば、それは生きることをこばむことにさえなった。そのあわただしさは、戦いの終わった今日からまだ明日へもつづいていることを思わせた。戦争はけっして終わったとは思えぬことが多かった。」戦後間もない時期の人びとの心境を表現しているのだろうか。作品にのいたるところに、死に対する無造作な達観がかいまみえる。妹を失った教え子に大石先生が書いた励ましの手紙はこうつづられる。「赤ちゃんは、ほんとうにかわいそうなことをしましたね。でももうそれはしかたありませんから、心の中でかわいがってあげることにして、あなたは元気を出しなさいね。」多くの死を日常的に見たものだけにしかわからない、「ざらざらに荒れた心」を見るようで恐ろしい。
  この小説の全編を貫くのはどうしようもない無力感だ。何より教師の無力。大石先生は一度生徒に「アカって知ってる」と問いかけるが、それは反戦教育とはいえないほど小さな抵抗に過ぎない。女性教師だからではない、男性教師も特高の目を恐れて戦々恐々としているばかりで、挙国一致体制にたてつくものなど一人もいない。瀬戸内の小島の住民はただ時局に巻き込まれ、失うものはすべて失うしかない。壺井栄は負けた戦争にだれ一人英雄がいないことを言いたかったのかもしれない。
  戦争文学をここしばらく手にとるうちに、どうしても大学のゼミナールで「戦争と平和」をテーマにとりあげたくなった。いつかは扱ってみたいテーマだったが、戦争法が施行されて、軍靴の響きが再び近づくような気がする今日、今やるべきだと考えた。これが教師である以上、教え子は戦場に送らないというわたし自身への誓約書でもある。銃後に残されることを恥辱とするからだ。

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