Ich bin steindumm

2016/09/11 9月、なんと美しい季節

 9月の声を聞く。この時期になるときまってバルバラ(Barbara)の「9月」(Septembre)を聴きたくなる。初めて聴いたのは中学生くらいの頃、深夜放送のラジオだった。あの頃はまだ外国の文化に人々がほのかな憧れの香りをかいでいた時代だ。フランス語をまったく解さない中学生にも、その曲はもの悲しく美しかった。

長いインターバルをおいてこの曲を再び耳にしたのは、スイスに留学してからだ。わたしの勉強したフライブルク大学は、フリブール大学というもう一つの名をもつ、ドイツ語圏とフランス語圏の中間にある、いわゆるバイリンガルの大学だった。授業は二つの言語でおこなわれた。(正確にいうと、カトリック州のフライブルクには、イタリア語圏の学生が勉強にやってくるので、授業はしばしばイタリア語を含めた3カ国語でおこなわれた。)当時はまた熱いドイツ文学者だったわたしは、ドイツ文献学を勉強しにきたのに、いまさらフランス語など・・・と憮然とした気持ちになったが、そういうわたしの傲慢さを見透かしたのか、先手を打つようにスイス政府は夏期フランス語講座をわたしのために勝手に予約してしまっていて、無理やり学ばされるはめになった。

なにせ2ヶ月で大学の授業についていけるような語学力を速成するクラスだ。朝から晩までフランス語漬けで、ノイローゼのようになって中間試験を終えた。成績は問わないことにして、なんとか脱落せずについてきたご褒美だったのか、厳しいバウマン先生は生徒たちにフランスのシャンソンをいくつか聴かせてくれた。そのうちの一つが「Septembre」だった。ピアノが奏でる緩やかな伴奏にバルバラのメランコリックな声がのっていく。Jamais la fin d'été n'avait paru si belle. Les vignes de l'année auront de beaux raisins.という出だしは、ほとんどフランス語がわからなかったにもかかわらずすぐ覚えてしまい、いまでも口ずさめる。季節が傾き、わびしい冬の気配が感じられるようになると、なにか別れが近づいているようなさみしさに襲われる。バルバラの歌も一見、恋の終わりを歌っているように思えるが、実は何気なく別れ際に「またね」といってみせる。彼女の歌に共通する、死とユーモアのセンスがわたしはたまらなく好きだ。それはもの悲しくて滑稽なアコーデオンの音色のように、晩秋のパリを思い出させてくれる。この時期パリの町はマロニエの落葉に埋まって、黄色くなる。街角には焼き栗の香りがたちこめる。バルバラの「Septembre」はその光景をはっきり描き出してくれる。

彼女の声と詩の美しさにわたしは魅せられ、フランス語を真面目に勉強する気になった。それ以来、専門ではないが、フランス語への愛だけは消えることなく続き、それは時としてドイツ語をしのぐほどだ。ドイツ語は何ともいえず、歌にならない無粋な言葉なのだ。残念ながら・・・。こんなことをいうとドイツ語愛好者に怒られるかもしれない。確かにPe Wernerのようなすぐれたシンガーソングライターはいる。彼女の「Herbstzeitlos」もこのもの悲しい季節を歌った歌だ。

 

もしわたしの秋が来ても
わたしの灰色を
銀に染めたり、おばさんの青に染めたりしない
平気でうけいれる

もしわたしの秋が来ても
枯葉の海が地面で波打っても
わたしは数えない
年輪を笑ってやる

 

Pe Wernerの言葉の魔術は魅力的だが、解説が必要だ。ドイツ語にAltweibersommer「おばさんの夏」という言葉がある。夏を美貌の女性に喩えれば、老いた秋はおばさんということになるが、寄る年波に対抗して老婆が一念発起して若造りしてみせるように、暮れていく秋も、ある日真っ青な空を見せてくれることがある。「おばさんの青」とはその一日だけの青空のことで、わたしはグレーの髪をそんなふうに染めないという意味なのだ。どうにも理屈っぽい。

バルバラに戻ろう。1930年にパリでユダヤ人を父にもって生まれたときけば、彼女が多難な少女時代を送ったことは容易に想像できるが、実際、家族とともにナチスドイツの迫害を逃れ、フランス中を転々としながら逃亡生活を送り、幸運にもゲシュタポの手に落ちることはなく、終戦を迎えた。しかし命の危険にさらされた経験をもちながら、彼女は不思議とドイツに近い存在だ。1964年ドイツのゲッティンゲン大学の学生たちに招かれてこの町を訪れた彼女は、即興で「ゲッティンゲン」(Göttingen)という曲を書く。「ここにはセーヌも、ヴァンセンヌの森もないけれど、美しいバラがある」と歌うこの曲は、実は反戦歌だ。戦後19年が経ち、彼女を囲んだ学生たちはファシズムを直接知らない青年たちだったのだろう。そんな若者をバルバラは「子供たち」と呼んで、「このドイツの子供たちはわたしたちよりフランスの歴史をよく知っている」と驚いて見せ、「この子供たちもメランコリーを知っている」と歌い、「パリでもゲッティンゲンでも子供はどこでも同じ」と言う。

 

「ああ、血と憎悪の時を二度と戻らせないで。ここにはわたしが愛する人がいるのだから。ゲッティンゲンには。もし空襲警報が再び鳴って、武器をとらなければならなくなったら、わたしの心は一粒の涙を流すでしょう、ゲッティンゲンのために。」

 

 この曲を彼女はドイツ語でも歌っている。ユーモアたっぷりに改作されてはいるが、この最後の部分だけは同じだ。

Lass diese Zeit nie wiederkehren
und nie mehr Hass die Welt zerstören
Es wohnen Menschen, die ich liebe
in Göttingen, in Göttingen
Doch sollten wieder Waffen sprechen
Es würde mir das Herz zerbrechen.

Göttingenを「ゴッティンゲン」と発音する、彼女のフランス語なまりが愛らしい。その歌をドイツ人はドイツとフランスの和解の歌ともっともらしく理解しているが、そうではないだろう。バルバラはただ伝えたかったのだ。国家や政治ではなく、目の前にいるこの「ブロンドの子供たち」に新しい時代を切り開いてほしいということを。希望とメランコリー。バルバラの声は晩秋の空のように澄んでいる。

 

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