Ich bin steindumm

2017/03/31 日本の家の命は、人間の寿命よりも短い

 

 自分がかつて住んだ町を描いた、小さな文学を読むのが好きだ。北杜夫の『どくとるマンボウ青春記』はいまでもときどき手にとるが、松本で最初の大学生活を送った日々を思い出させてくれる。北は終戦の二週間前に松高と呼ばれた旧制松本高等学校の高校生となり、戦後の混乱の中、比較的のどかな学生生活を信州で送った。40年近い時間の差はあっても、わたしは信州で、質的には北杜夫と同じ学生生活を過ごせたと思う。松本には慶應大学通信教育課程の地方組織、松本慶友会があり、いまから数年前に招待講師に呼ばれたとき、松本の学生さんたちの好意で、教室に県(あがた)の森にいまでも残る松高の旧校舎で授業できるよう取りはからっていただいた。学生時代そこで、中央大学で教えておられた小塩 節先生の講演会を聞いたことがある。初秋の寒い木造校舎で、オペラ歌手のような美声の先生は、朗々とリルケの詩を朗読された。「秋」という詩の、「枯葉はいやだいやだと否定の身振りで落ちる」という一節を手振りをまじえて教えてくださった。わたしはといえば、残念ながら授業日がちょうど市の催しと重なって、そこで授業をすることはかなわなかったが、同じ場所で学び・教えることができるということに、松本との何か深い縁(えにし)を感じた。
 しかしわたしが学んだ昭和50年代と、わたしが教える平成20年代には30年余の時間の隔たりしかないのに、町はもう大きく様変わりしている。県の森も表玄関は同じだが、それをくぐって中に入れば、ヒマラヤ杉の並木の向こうにあった、北杜夫も住んだ「思誠寮」はもうない。「寮雨」と呼ばれた乱行や、辻邦生や臼井吉見といった多くの俊英を輩出した、大正時代からの学生寮も、松本市の環境整備事業の前に昭和58年、取り壊しを余儀なくされ、60年の命を閉じた。市民の憩いの森の奥に、むさ苦しい大学生が破帽・高下駄でたむろしていては困る、ということだったのだろう。立ち退きに反対した、最後の寮長はわたしの後輩だったが、彼もいまは故人となった。友人を訪ねて入った寮の、黒々と重い棟木と、底が抜けそうな廊下はいまでも忘れられない。

 わたしの郷愁を誘う、もう一つのお気に入りの書は、犬養道子さんの『フリブール日記』だ。敬虔なクリスチャンであり、エッセイストであり、人道活動家の犬養さんはスイスのフリブール市に1979年8月から数ヶ月間滞在した。目的はスイス史についての本を書くことであったが、それと並んで大きな目的は、この日記の副題が「世界の痛苦を見つめる」と題されていることからもわかるように、難民大国のスイスで難民問題と直に触れて、その救済活動Fribourg04に尽力したかったからだ。

「机に向かい、安楽に図書館通いをして、今日の世界の最大の痛みのいくつかに対し、傍観者的評論家であることへの疑い。その「嘘」への反撥。行政にあらず、評論にあらず、かくもないがしろにされているいのちに直接に触れたいのぞみ。〈苦しむ人たち〉〈飢える子ら〉――すべては抽象ではないか。[・・・]おのが母が病気のとき、口先でお大事にといい枕元に小切手を置いて帰るだろうか。」

その思い通り、彼女はここからさまざまなメッセージを発信し続け、最後にはカンボジアの難民キャンプに跳びこんで、難民と接している。
 犬養さんが、「大学の裏の閑静な住宅街をぬけた」ところにある「アブストラクト」と呼んだ教会の鐘を聞きながら、わたしもこの町に3年間暮らした。アブストラクトなのは、このプロテスタント教会がカトリック信者の犬養さんの眼には、素っ気ない「抽象的」なものに映ったからだろう。わたしがその教会の前を通って毎日大学図書館に通ったのは、その9年後、クメール・ルージュも崩壊し、カンボジア難民も沈静化した頃だったが、逆に、東欧の計画経済が破綻し、多くの経済難民が旧社会主義国から押し寄せる時期だった。
 犬養さんには許可されなかった、長期滞在ヴィザは、スイス政府の給付留学生だったわたしには難なく与えられたが、高名なジャーナリストが週末になるとせっせとグリンデルヴァルトや、エシネンゼー、シュピーツへと登山に出かけたのとは対照的に、貧乏学生のわたしは図書館にこもって、ひたすら勉強するしかなかった。いま『フリブール日記』を読み返しながら、なんとももったいない時間を過ごしたような気がしてくる。あの大自然のすべてを満喫できたかもしれないのに!!ただしお金がなかったので、街はひたすら散策した。宗教改革後ほとんどすべての州がプロテスタントに鞍替えした独仏語圏のスイスの中で、唯一カトリックの教えに留まったフリブール州は、中世以来の旧市街を残し、いまもタイムカプセルのように、古い町並みのなかにある。市庁舎横の長い石段を降りていった先は、いまでも14世紀だ。そこから見上げれば、まるで冠をかむったマリアのような姿で街を見おろす、サン=ニコラ大聖堂がそびえている。それは西洋絵画で観た、マリアがマントを広げて信者を守ってやる絵とまったく同じ構図だ。クルマも入れない路地には静寂が漂い、街全体には悠久の時間が流れている。

先日、日仏会館で催された「幕末 3D ―スイス人写真師ピエール・ロシエ」(2017. 3.24-4. 7)という展覧会を訪れ、わたしや犬養さんが知っているより、もっと古いフリブールと対面することができた。ロシエ(1829-1886)は日本を訪れた初めての「プロの」写真師で、1858-62年長崎と江戸に滞在して、幕末の風景を銀板ネガにおさめた。何より興味深いのは彼がフリブールの出身だったことだ。
 ロシエの写真に写った日本人は、鎧を身にまとった戦士であったり、羽織袴に帯刀した武士であったり、正装でポーズを取る僧侶であったり、縁側でくつろぐ侍の一家であったり、町娘であったりさまざまだ。そのどれもにいえることは、こうした人びとはもう日本から失われているということだ。ちょんまげや結い髪や和服はもちろんだが、浅黒い顔、腫れぼったい目じり、短躯――いまのわたしたちがまったく違った姿形をしていることに驚く。もちろん人間だけではない。黒光りする木造家屋、調度品、板塀――こうした風景はわたしたちの日常からもう姿を消している。言うまでもないことだ。150年も昔の幕末の日本が、21世紀の今に残っているはずがないではないか。しかし写真展を見るうちに、本当にそうなのであろうか、と自問してしまった。それは同時に展示してある、ロシエが同時期に撮ったフリブールの写真を見て、そこに150年前のフリブールが、わたしが見たフリブールとほぼまったく同じ形で存在していることを知ったからだ。サン=ニコラ大聖堂もマリア広場もフランシスコ会の教会も何も変わっていない。ツェーリンゲン橋もゴテリン橋も技術の進歩とともに、桁橋(吊橋)からの橋脚をもった橋にかわったが、その景観はもとのままだ。何より、品のよい身なりで被写体となった紳士・淑女の表情は、現在のスイス人とさほど違ってはいない。それに比べるとわたしたちの日本は何という早いスピードで変化したのか。150年という時間をわたしたちは、世界が別の世界に生まれ変わるのに十分なほど長いと考えているが、それはヨーロッパ人にとっては、中世から現在にいたる過程のほんの一瞬で、その間に何もかもが入れ替わってしまうほどの長い時間ではない。それがわたしが、いまなぜ羽織袴でチャンバラしている日本人がいないのだろうか、と不思議に思った理由なのだ。そんなにやすやすと自分の持ち物を捨てて、脱亜入欧しなければならなかったのだろうか。欧州の何たるかも知らないうちに。

二つのシンクロする写真を眺めていて、作曲家の武満徹の言葉を思い出した。

「日本の家の命は、人間の寿命よりも短い。」

これも当たり前であってはいけない、日本の当たり前なのかもしれない。いま日本人で、生まれた家で息をひきとることができる人がどれ程いるだろうか。わたしたちの生涯の全篇を看取ってくれるような建築物はもう存在せず、まるで消耗品のように使い捨てられていく家をわたしたちはノマドのように転々とする。「イエ」とは元々物質ではなく、先祖代々続いてきた血族としてのまとまりを意味した言葉だ。そのことを考えると、イエが人間よりも早く死ぬということは、人間関係の短命さのことを表しているように思えてくる。短命な家で結ばれることのないまま、人間の関係が立ち消えていく。60年で命を絶たれた思誠寮も、明治の大号令で生まれ変わった長崎や江戸の町も、人がそこに想いを刻み込んだ貴重な空間であることを顧みてはもらえなかった。ロシエの写した二つの世界は、不易と無常の二つの世界でもある。

 

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