Ich bin steindumm

2017/07/31 チョークとワイン

 

 「うちの会社は働くことを諦めなければならなかった人たちにその機会を提供し、働くことが楽しく嬉しい、と真の喜びを知ってもらえる仕事を続けてきた」

                                                             (日本理化学工業社長 大山隆久)

 

 仕事柄、黒板は大切な商売道具だ。教卓の下に白や赤や青の箱に入って積まれているチョークも、長年の仕事仲間だ。小学校で出会って以来、おそらく退職するまで、白墨を削りながら、わたしは人に何かを語り続ける。
  先日ある大学で授業を終えて学生たちと歓談していたとき、彼らの向こう、教室の背後にホワイトボードがあることに気がついた。それがひときわ目立ったのは、それまで正面の黒板で板書をしていたからだ。旧帝大の威容を誇る時計台の下の教室の内装は古く、まだ黒板教室が主流だが、新規に改装するときはホワイトボードに入れ替えるつもりのようだ。一つの教室に「黒と白」が対峙している図に少し興味があったので、学生たちにどちらが好きかたずねてみた。多くは白、黒板はチョークの飛沫粉のせいで不人気のようだ。わたしもこの粉には苦い思い出がある。大学教師になったお祝いに母が買ってくれた、ずいぶん上等な背広をチョークのせいで台なしにしたからだ。粉が繊維にはいったグレーの生地は、光が当たると黄色に輝くようになった。おかげでそれ以来授業に背広は着ていかない。学生の中にはアレルギー性過敏症のものもいて、板書を消すと、くしゃみをしたり鼻をすすったりするものもいる。何より高性能の精密機器がある教室では、粉塵は天敵だ。
  というわけで、軍配はホワイトボードに上がりそうだが、わたしは黒板教室の大の理解者だ。そのわけを学生に話そうとして、粉塵にまみれた教卓の下を探ると、あったあった「ダストレスチョーク」、「ホタテの貝殻で作っています」という表示の箱、そしてそこにある「日本理化学工業」という社名、日本のチョークの50%を製造する老舗工場だ。
  この会社が近年有名になったのは、その障害者に優しい社風で「日本でいちばん大切にしたい会社」に選ばれ、それがメディアに大々的に取り上げられ、ドキュメント本『虹色のチョーク』が売れたからだ。全従業員の7割が知的障害者で、生産ラインはほぼ100%障害のある人で支えられているという会社はもちろん偶然できたはずはなく、社長を初めとする従業員が一丸となって、知的障害者に働く喜びを与えるために職場を改造してきた。生産性だけを考えるのなら、健常者を雇い、ノルマを課して、できなければ残業を強いればよいに決まっているが、この会社は真逆の経営戦略を貫いた。それは彼らが、「儲け」だけでは社員の士気は上がらず、効率を追えば追うほど管理システムは非人間化し、労働者から労働意欲を奪うことを知っていたからだ。この仕事は自分でなくともできる、自分は必要とされていないと感じることほど、職場で虚しいものはないだろう。そうした働きがいのない企業が今の日本では当たり前になっている中、日本理化学工業は生産の中核にあえて非生産性を据えることで、売り上げが会社の主目的ではなく、社員の働く喜びの創造なのだということを目に見える形で示した。社会が不必要の烙印を押した人びとをあえて「必要だ」と主張し仕事をまかせることで、労働の意味がその結果(成果)にではなく、労働自体に、働くことそのものにあることを示したのだ。
  しかし現実は甘くない。仕事のできない社員とペアを組む社員は不満を抱き、株主も反対した。何より食うか食われるかの競争を、生き残りを賭けて戦っている企業にとって、理想を貫くことは容易ではない。事実日本理化学工業も、何度も経営危機に陥っている。興味深いのは、そうした経営難の中でこの会社がとるのは常に「アナログ」な解決策だということだ。ビデオカセットの製造を副業に請け負い、ハンガーリサイクル事業を立ち上げる。しかしやがてビデオはDVDに取って代わられ需要が落ちこみ、リサイクル業も経営の救世主とも言い難い。それに加えて、黒板と白墨の不人気が追い打ちをかけ、チョークのシェアを徐々に落としていった。時代は明らかに「手を汚さない」ライフスタイルへと移行しているのに、日本理化学工業はそれとは正反対の方向へ進んでいった。
  ライフスタイルが変われば生活が変わるだけではない。産業構造も変わる。スマートフォンのデザインが一つ変えられるだけで、その部品を作っていた町工場の従業員が数十人解雇される。スーパーのセルフレジがパートの熟練主婦を駆逐する。テロ対策で町からゴミ箱が消えると、清掃員たちも消える。百貨店のエレベーターガールも、お得意さんを回る外商も、富山の薬売りも、そもそもこの世には必要のなかった業種なのだろう。「手を汚さずにすむ」ライフスタイルが人の生きる風景をどんどん変えていった。


  若い学生や研究者たちと接していると、彼らの価値観の中心に効率性があることがはっきりわかる。最小の労力で最大の成果を上げる技術を、子どもの頃から教えこまれてきたのだろう。よい仕事とはできるだけ手間をかけずに済ませられるもののことなのだ。その余った時間を自分の本当にやりたい趣味にふり向ければよい、という理屈はその通りかもしれない。しかしそうした選別基準でまず切り捨てられるのは人間関係だ。なぜなら人と人との関係は何より手間がかかり、手を汚さなければ成り立たないものだからだ。人を閉め出してやる仕事は確かに早い。しかしそれを許せば、やがて自分もその仕事から閉め出されることになる。あなたが手っとり早くクリックですませた瞬間、あなたも手っとり早く生活圏から消去されたのだ。
  障害者を積極的に雇用しているのは日本理化学工業だけではない。栃木県足利市の「ココ・ファーム・ワイナリー」を訪れたのはもう10年も昔になる。このワイナリーは理化学工業と同じく、2002年にやはりその障害者支援で渋沢栄一賞を取っている。いや「支援」ではなく、この会社はそもそも障害者が立ち上げたものだ。1950年代に知的障害者施設「こころみ学園」の生徒たちが、授産事業の一環として急勾配の山肌に葡萄の苗木600本を植えたとき、このワイナリーの歴史が始まった。葡萄の手入れをするのも、堆肥を運ぶのも、摘み取るのも、つぶし、醸造し、瓶に詰め、ラベルを貼るのもすべて障害のある農夫たちが行っている。あの日も彼らは働いていた。大きな倒木を抱えて10人ほどの若者たちが、えっさえっさと坂を上がってきたときの、彼らの嬉々として楽しそうな表情は忘れられない。みんなで働く笑顔が輝いていた。そして何より葡萄山の頂上から聞こえてくる、鍋をたたくような奇妙な音。それはカラスを追う音だと、ファームの職員は説明してくれた。見ればはるか彼方、麦わら帽子の青年が炎天下で何かをたたいている。彼は365日毎朝一番に、弁当をもって急勾配の山を登り、頂上で日が暮れるまで鍋をたたき続けるのだ。カラスを威嚇するだけならもっと効率のよい方法があるだろう。しかしその青年はその過酷な仕事をだれにも譲らない。この畑を守っているというのが彼の誇りだからだ。
  山頂から途切れることなく聞こえてくる音を聞きながら、わたしはその青年の子どものような無心さに敬意を払った。


  「この子たちに、一度でいいから働くというのはどういうことか、体験させてあげたい」という一途な思いから理化学工業もココ・ファームも出発した。しかしこの思いは障害者だけではなく、わたしたち健常者ももとはもっていたものだろう。手間を惜しまず、効率を追わないことが、仕事から楽しさを奪わない唯一の手段であるのかもしれない。そのためには粉だらけの教室を厭わず、手を汚し、SNSに頼らず、アナログな授業をしていくほかない。そしてそのことが、世界の片隅で慎ましく自分の仕事をこなしている人たちと手を取ることになるのだ。

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