Ich bin steindumm

2017/08/15 零戦と黒豚

 

 軍人だった父がわたしに繰り返し語った話がある。

 

 飛行機の上から見ると、何もない海原の上に小さな点が見えた。近くまで下りてみると、板切れに乗って黒豚が一匹漂流していた。

 

 それだけの話だった。大海を黒豚が漂流していたのが滑稽でたまらないといった様子で話した後、父は必ずこの話を、「可哀そうやったな」とつぶやくように結んだ。
  父は海軍の飛行機乗りだった。旧制の中学をあと一年というところで中退し、予科練に入り、厳しい訓練を経て零戦のパイロットになった。16歳から20歳という多感な時期を軍隊で過ごした父にとって、戦争とは青春のすべてであったのだろう。復員して、祖父の工場を任され、戦後の高度経済成長の恩恵にあずからず、苦労ばかりしていた父にとって「海軍魂」は心の支えだったようだ。しかし彼は武勇伝のようなものは一切語らなかった。
  戦争について何も喋らない父に、わたしも何もたずねなかった。どこやらの作家のように、戦時中の父親の行状を出しにして、正義漢を気取る気はない。一兵卒で、水上偵察を任務としていた父が残虐行為に加担したとは考えにくかったし、何より誇り高い海軍軍人としてのプライドは殺人行為とは別のところで彼が戦争に参加していたことをうかがわせた。
  そんな考えが少し変わったのは、彼の戦友の手記を読んだ時だ。
  父が恩人と仰いだTさんは同じく零戦の搭乗員で終戦直前まで父と生死を共にしたが、父との大きな違いは、戦後自身の戦争体験を精力的に書き残し出版した点だ。それは義に篤い九州男児の、戦争で散った戦友たちへのせめてもの鎮魂歌だったのだろう。その中に父との思い出ももちろん記されている。歴戦の勇士の手記の、「帝国海軍かく戦へり」といった口調がやや鼻につくが、かえって能弁なTさんとは対照的に、寡黙な父がどれほど英雄であることを拒んだのかがよくわかる。その反面、死線をさまよった貴重な体験を封印してしまったことを、あらためて残念に思った。
  例えばこんな話がある。
  父とTさんが同じ飛行機で出撃を待っていると、隊長機が整備不調なので機を交換するようにとの命令が出た。編隊は先に出撃し、二人は整備が終わり次第、隊長機で後を追うようにというのだ。しかし2時間遅れで出発した父とTさんが目的地の飛行場に到着すると、そこに先発隊の姿はなかった。途中で敵機に待ち伏せされ、全機撃墜されたのだ。父は偶然命拾いしたということになる。まるで小説のような話だが、父からはまったく聞いたこともない。なぜこの一級の武勇伝を話さなかったのか?そしてどうでもよいような黒豚の話がすべてだったのか。その謎もTさんの手記にあった。
  昭和19年のある日、父は命令を受けて、室戸岬沖を航行する客船を護衛するため、小松島空港から飛びたった。太平洋戦争末期の日本近海には米軍の潜水艦がうようよと出没していて、民間船といえどもとても護衛なしで航海できるような状況ではなかった。父とTさんは上空から潜水艦がいないか偵察する任務を帯びて、客船の周りを旋回した。上空から見ると、どんなに深く潜行していても潜水艦の機影は、まるで鯨の背中のように黒くはっきりと見分けられると父はかつて語っていた。その船はドイツへ向かう商船で、甲板には多くのドイツ人たちが出て父たちに手を振った。
  やがて燃料も残り少なくなり、交替機と入れ替わりで帰路についたが、それがあまりに上空を飛行していたため、潜水艦を探知できるのか不安に思ったという。 帰投すると、空港は蜂の巣をつついたような騒ぎで、すぐ引き返して交戦体制に入るよう命じられた。敵潜水艦から商船が攻撃を受けているというのだ。父たちは即座に給油して再び離陸した。
  先ほど乗客たちが手を振っていた場所に着くと、すでに船はなく、しばらく飛ぶとおびただしい重油の帯と漂流物が海上に漂っているのが認められた。しかしその中に人の姿はなかった。いたのはくだんの一匹の黒豚のみ。乗員全員が亡くなったのに、どういうわけで豚だけが九死に一生を得たのかわからない。しかし確かなことは、父が「可哀そう」といったのは豚ではなく、ドイツ人たちだったということだ。そのことを彼はあえて語ろうとはしなかった。なぜか。その理由は手記の先にある。
  どれだけ飛んでも生存者が見つかりそうにないのを見たTさんは諦めて、帰投しようしたが、父は断固それに応じず、敵潜水艦を見つけるまでは帰らないと、執拗に付近を飛び続けた。だがやがて燃料も尽き、これ以上飛ぶと自分たちも帰還できなくなるという瀬戸際まで来て父はようやく諦めて、もっていた対潜水艦用の60キロ爆弾を投下して引き返した。帰投後Tさんが、なぜ意味のない投下をしたのか聞くと、父は真顔で「あれは必ず命中している」と言って譲らなかったそうだ。つい数時間前に見た、手を振る乗客の姿が目に焼き付いていた父は、彼らの無念さを思い、どうしてもかたきを討ちたかったのだろう。わたしは父の殺気を感じた。寡黙で、声を荒立てるようなことはなかった温和な人が、若いころ死に物狂いで敵と相対して、殺してやろうとしたのだ。にわかには信じられないが、しかしそれが父のもう一つの素顔なのだということは私にはぼんやりわかる。
  先に述べたように父は豊中中学(今の豊中高校)を中退し、海軍の予科練習生に合格した。それが昭和16年10月だったということには、大きな意味がある。中国と朝鮮をすでに侵略していた日本は、その前年ドイツ、イタリアと三国同盟を結び、本格的に欧米を相手に世界大戦の準備を整えていた。満州や南方での軍事行為を非難され国際的に孤立した日本では、「米英討つべし」という感情が国内に満ち満ちていた。そしてついに昭和16年の12月に真珠湾攻撃で日本は太平洋戦争へ突入していく。国家存亡の危機を目のあたりにして、父が愛国心に燃えて海軍を志願したことは容易に想像できる。しかしそれは「想像」であって、彼の真意が何だったかを知ることはもはやできない。父は終生、予科練の「甲種合格」の飛行士であることを誇りにしていた。入隊したばかりの新米水兵が、真珠湾の大戦果をどのように聞いたのか、聞いてみたかった。
  敗色濃くなった昭和20年、父たちもやはり「特攻」に回される。木製や布張りの練習機の方が敵のレーダーに捕らえられなくてよいといわれていた時代だ。偵察機とて特別扱いはされなかった。出撃を待つ間に、彼はたくさんの戦友たちを見送ったのだろう。彼らは総じて飛行経験の少ない若いにわか仕立てのパイロットたちだった。彼らの中には出撃前夜、上官から呼び出され性行為を強要されるものもあった。「明日死による奴らには何してもええ思とったんや。」父は母にだけこの話をした。以前、知覧の特攻平和会館で数多くの特攻隊員の遺書を読んだとき、そこに書かれた家族への哀切な想いと、明日必然となる死への恐怖が、父の言葉と重なり、わたしは混乱した。しかしその薄汚れた欲望こそが戦争の素顔なのだ。
  父には結局出撃命令は下りず、稚内へ転属となり、そこから樺太に渡った。ソ連の参戦が濃厚となり、それに備えて情報収集をする必要が生じたからだ。4年間の軍隊生活で身につけた、高い通信傍受の技術に命を救われた。
  敗戦の声を聞いて、航空機も施設もすべて破壊し、内地に戻った父は戦友のほとんどが特攻で戦死したことを知る。そのあとの彼の行動は謎に満ちている。復員して親元に帰ることなく、一月のあいだ消息を断ってどこかを彷徨っていたのだ。もしかすると死に場所を求めていたのかもしれない。あるいは青春のすべてが否定され、敗残兵となった今、親にあわせる顔がないと考えたのかもしれない。
  彼の予科練甲飛第九期は4人のうち3人が戦死した、もっとも過酷な期だった。父が残した「総員名簿」のどのページも(戦死)の文字で埋め尽くされ、そのほとんどが昭和19年に集中している。生き残れたのはほとんど奇跡に近い。拾った命を父はどう生きたのだろう。自身の戦いには寡黙な人だったが、戦友の写真を見ると、「この人は長野の農家の三男坊で・・・」とか、「この人は台湾沖の空中戦で・・・」とか戦死の年月日まで違わず記憶していた。「戦争は醜い」、「兵隊はこすい(ずるい)」と言い、英霊はいない、と言い切り、靖国には決して行かなかった。

 わたしが「文学なんぞ」を勉強するのにはすこぶる反対で、女の学問と切って捨てていたが、ドイツ文学と聞いて何も言わなくなった。そこにはあの日機上から見たドイツ人たちの姿が重なっていたのだろうか。だとすればわたしは父に代わって罪滅ぼしをしていることになる。
  亡くなる直前、延命治療はしないという約束でようやく大阪市内の小さな病院にベッドを見つけた。全身チューブにつながれ、もう話すこともかなわなくなった父は、最後の力をふりしぼって震える手で、「0センに乙ヒの人がのっていた」と書いてわたしに渡した。敗戦直前には、ほとんど訓練を積んでいない乙飛まで飛ばされた。特攻のことだ。甲種合格の飛行兵にもかかわらず生き残り、乙種の人たちを先に送ったことを悔いているのか。それが遠のく意識の中で伝えたかった、父の最後の言葉だった。

 

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