Ich bin steindumm

2018/08/15 日吉地下壕を歩く


 重い鋼鉄の扉を開けると、暗黒の地底から冷気が吹き上げてきた。真夏の草いきれの中に汗だくで立っていたわたしは、まるで何年も封印された霊たちに、うなじに息を吹きかけられたかのような感じがして、首をすくめた。奇しくも8月15日の終戦記念日、わたしは日吉地下壕の見学会に参加していた。太平洋戦争末期、海軍はそれまで艦上にあった連合艦隊総司令部を、空襲から守るため、陸にあげ、慶應大学日吉校舎を借り上げ、地下に大規模な防空壕を掘って、そこから指令を出すことにした。学生たちを学徒動員で放り出した校舎に、400人もの士官たちが入り込み、ここから息を潜めて、特攻や玉砕の命令を出していた。現在の塾高の校舎には情報部があり、作戦指揮をとった総司令部はそこからしばらく下った学生寮に置かれた。いまはもう埋められてしまったが、南寮の横には126段の地下防空壕に続く階段が作られ、司令長官や参謀たちは空襲警報が鳴ると、その階段を駈け降りて、地下の作戦室に避難した。校舎の下にはまるで蟻の巣のように、延べ2600メートルにものぼる複雑な迷路が掘られ、そこに長官室や参謀室、作戦室が作られた。それは人が想像する、防空壕というレベルのものではない。敗色濃厚な日本にこれだけの物資があったのかと、驚くほど強固なコンクリートで作られた要塞は70年の歳月をものともせず地下で睡っている。空襲警報が鳴ると一般庶民は、庭に掘った穴でモグラのように息を殺すしかなかった時に、高級将校たちは書類をかかえて、地下数十メートルの安全地帯に逃げ込んだ。連合艦隊総司令部となった、学生寮の食堂で撮られたスナップには、すまなさそうに目を伏せた豊田副武長官と、草鹿龍之介参謀長の姿が写っている。
 この食堂から発せられる指令を日本中の、そして海外の前線の海軍兵士のすべてが待っていた。その一人に、『戦艦大和ノ最期』を書いた吉田 満がいる。吉田は、沖縄への特攻作戦に出撃する大和に少尉として配属され、艦の沈没を見届けた。不沈艦と呼ばれた世界最大の戦艦がアメリカ軍によってたった2時間で沈没させられるまでを描いた『戦艦大和ノ最期』は、大日本帝国の断末魔を記した貴重なドキュメントであり、大岡昇平の『野火』や、五味川純平の『人間の条件』と並ぶ反戦文学の珠玉だ。その壮絶な戦闘シーンは、体験したものだけが書ける迫力で読者に迫ってくるが、それと並んで、勝機がまったくない特攻攻撃に参加しなければならない兵士のいだく、言いようのない虚無感と怒りが作品からにじみ出ている。吉田の言うようにこれは、「空前絶後ノ特攻作戦」だった。陸軍が南洋の孤島で「玉砕」という美名のもとに、全将兵の命を盾に抵抗戦を繰り広げているのに、海軍は何もしないでよいのかという強迫観念に駆られ、司令部は「面子」のために、もはや用を為さなくなった最後の巨大戦艦と駆逐艦全10艦を結集して、3000人の海兵とともに沖縄に出撃し、沖縄沖に乗り上げさせて海上の砲塔にし、米軍の上陸部隊を攻撃しようという、あり得ないような作戦を立てた。吉田もこれを、「常識ヲ一擲」した、「余リニ稚拙」、「無思慮」で、「慚愧ニ堪エザル」作戦と呼び、大和艦長の伊藤整一少将が徹底的に反対したことを記している。これを説得しに来たのが、先ほどの日吉司令部で参謀長を務めた草鹿龍之介だ。首を縦にふらない伊藤に彼は、「皇恩ノ万分ノ一ニモ報ワレタキ」、「一億玉砕ニ先ガケテ立派ニ死ンデモライタシ」と伝え、ようやく伊藤は承諾した。もちろん一億総玉砕することはなく、総司令長官以下、この作戦を立てた参謀たちは戦後全員生き残った。艦長たちはそのことを予感していたのだろう。特使に詰め寄って言った。


「真ニ帝国海軍力ヲコノ一戦ニ結集セントスルナラバ、『ナニ故豊田長官ミズカラ日吉ノ防空壕ヲ捨テテ陣頭指揮ヲトラザルヤ』ト。」(講談社文庫版45頁)


 これは一士官であった吉田自身の真情でもあっただろう。司令部の参謀たちは日吉の地下でモグラのように戦争の終わりを待ち、彼らの「面子」を守るために3000人の将兵が生きて帰ることのない海に出航しようとしていた。しかし吉田がこの若手艦長たちの抗議が、「総員ノ衷情(本心)ヲ代弁セル」ものだったというのは正しくない。なぜなら、自分が帰りの燃料をもたない船に乗ったということを知らされていたのは将校たちだけで、兵士のほとんどがそのことを知らなかったからだ。彼らはみな無意味な死を受け容れさせられた。吉田は使い捨てられた兵士の命の叫びを代弁して、「日吉の防空壕」を卑怯者の巣と呼びたかったにちがいない。事実その通りだった。初めは400人ほどの司令部は、その後疎開してくる部隊で膨れあがり、終戦直前には1000人もの将校の避難所になっており、終戦の詔勅を聞いた彼らはだれ一人自決することなく、そのまま都内に引き上げたのだから。「一億総玉砕」と壮語し、3000人に無意味な死を強いた責任を、日吉の参謀の誰一人として取ることはなかった。
 こうした青年将校の憤りを読者が複雑な思いで読んだことは、この書に付された跋文によく現れている。そこでは、吉川英治、三島由紀夫、江藤淳、小林秀雄といった著名な作家や評論家がこの名作を讃えているが、その多くがこのドキュメントをまったく手前勝手な角度から読み、的外れな感想を述べている。「美しい人間性の現われ」と評した河上徹太郎は、この海上特攻の悲惨さを美と読み違えているし、三島由紀夫の読後感は、空疎な「感動した!」の一言に尽きる。「一個の偉大な道徳的規範の象徴」など本書のどこを探しても見当たらないにもかかわらず、彼はひたすら船員の死に美を読み出そうとする。小林秀雄にいたっては、あらためて読み返すこともなく、以前読んだ感想として「大変正直な戦争経験談」で片付けた後、「僕は馬鹿だから反省なんぞしない」と居直る。彼にとって戦中の協力姿勢を反省するのは、「自分の過去を他人事のように語る」ことであり、「そんなおしゃべりは本当の反省とは関係がない。(それは)過去の玩弄である。これは敗戦そのものより悪い」のである。吉田 満の経験談が貴重なのは、それが正直な過去の記録だからであり、その点で過去を修正しない自分も正しい、という小林の奇妙な論法は、まさにこの書を読まずに書いた結果としか言いようがない。いったい、「馬鹿だけができる本当の反省」とは何だったのか。


 江藤 淳は宮中秋の園遊会で昭和天皇に拝謁をたまわったその日に、感想を書いた。熱い思いをこめて、「巨体四裂」した戦艦と国家の運命を重ね合わせ、この書のアクチュアリティーは、「慟哭と鎮魂がいまなお過去のことになり得ていない」ことを示していると結ぶ。その読みは正しいだろう。しかし、江藤はそう書いた7年後の1981年、手のひらを返したように、この書を批判し始める。それはまさに彼が7年前に、「鎮魂の譜が鳴り響く」と讃えた、『戦艦大和ノ最期』の結びの言葉:


「今ナオ埋没スル三千ノ骸(むくろ)
彼ラ終焉ノ胸中果シテ如何」


に向けられる。巨大な戦争叙事詩を締めくくる言葉が、実は連合軍GHQの検閲で歪められた文言であることを知ったからだ。 (『戦艦大和ノ最期』初出の問題)
 その前年、江藤は研究休暇を得て、ワシントンの公文書館で、占領軍が日本の新聞や雑誌や書籍におこなった検閲を調査する機会を得ている。そこで彼が知ったのは、日本が敗戦・占領と同時に得たとされる「言論の自由」がまったく贋造品で、実はアメリカに都合のよいように言論統制をされて、アメリカ人の思考をすり込まれていただけだということだ。戦後40年を迎えようとしていた当時、江藤は、「日本人は自分が信じているものを、本当に信じているのだろうか」という深刻な疑問に突き当たっていた。これは、昭和50年頃の文化潮流を反映している。多くの文化人は、日本が繁栄のなかに埋没することで、何かを「忘れ」、堕落し、虚構となっていると感じていた。江藤は、この日本人が日本人であることを忘却したことこそ、アメリカによる巧妙な自由の押し売りの結果ではなかったかと問うたのである。
 まるで世紀末ヨーロッパが陥った、「西洋の没落」のようなペシミズムが日本を支配していたころ、江藤は公文書館で『戦艦大和ノ最期』の検閲資料を発見する。この書も検閲を受け、発行が差し止められ、その後大幅に改稿されてようやく世に出たものだ。江藤は、吉田 満自身が、「ほとんど一日を以て書かれた」という「本物」の『戦艦大和ノ最期』は、占領軍のご都合主義によって誰の目にも触れないように闇から闇に葬られたのだということを知った。わたしたちがいま読むこの書は本物ではない。それは作者の真意を大幅に歪めたまがい物だ。そのもっとも顕著なしるしを江藤は、先の結びの文言に見る。そこには本当は次のように記されていた。

「至烈ノ闘魂、至高ノ練度、天下ニ恥ヂザル最期ナリ」

1952年の初版本では、「戦死した3000人の将兵の無念の胸中はおもんばかるに余りある」とあったが、終戦の翌年(1946年)に発表しようとした原稿では吉田は戦友の死を、「天下に恥じることはないものだ」と肯定していた。いくぶんの感傷が混じっているにせよ、英霊賛美はこの作品の反戦的意図とはかけ離れている。江藤は、復員後まもなく書かれたこの言葉こそ、戦艦大和とその乗員に寄せた吉田の真意であったと断定し、彼が戦友を英雄と呼ぶのをやめ、その死に疑問符を伏し、反戦物へと方向転換したことを、占領軍の思想統制への屈服だったと非難する。
 確かに『戦艦大和ノ最期』は長い時間をかけて、改稿を加えられた重層的作品である。江藤も指摘するように、海に投げ出された作者が生死の境をさまよって、混沌とした意識の中でバッハの旋律を聴くシーンは、初稿ではただ「今聴キシモノ、マサニ然リ、音楽ナリ」とだけあり、時間とともに作者にそれがバッハの「無伴奏ソナタ」となって甦ったものだろう。あるいは、先の「日吉の防空壕」の記述にしても、絶対機密であった海軍司令部の隠れ家を一士官が知っていたとは考えにくい。海上特攻の全容も知らされていなかったはずで、こうしたこと含め、終戦後、作者が「史実」として再構成した部分は確かにある。しかしだからといって戦争批判がすべて検閲官の目を意識しての加筆だとは言い切れない。江藤はそれにはまったく言及しないが、白淵大尉が薄暮れの洋上に目を向けたまま低くつぶやくように発した有名な言葉はどうだろう。

「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ 負ケテ目ザメルコトガ最上ノ道ダ 日本ハ進歩トイウコトヲ軽ンジ過ギタ 私的ナ潔癖ヤ徳義ニコダワッテ、本当ノ進歩ヲ忘レテイタ 敗レテ目覚メル、[・・・]、日本ノ新生ニサキガケテ散ル マサニ本望ジャナイカ」(文庫版46頁)

これは実際に作者がその耳で聞いたものとしか考えられない。科学的データを軽んじ、精神論だけで戦いに勝てると信じた上層部を「大馬鹿野郎」と批判する声は、白淵に限らず若手将校からわき起こっていた。彼らは英霊になろうとしたのではなく、反省の礎となろうとしたのだ。その声は、検閲とは関係なく、この書の主題であり、それをここから聞き取らないのであれば、それは誤読としかいいようがない。
 吉田 満はその後、大蔵省に入省し、有能な官僚としてキャリアを積む。江藤は知らなかったであろうが、戦後彼はキリスト教に改宗している。初めはカトリックに、その後プロテスタントに移り、本郷の小さな教会の礼拝に通った。教会の片隅で静かに説教を聞く、寡黙な男を、『戦艦大和ノ最期』の著者と知る人は少なかった。人は変わる。ましてや極限状況で、死と相対した人間が変わっても何の不思議もない。戦死した友を英雄と讃えた一時の興奮が過ぎ、その死を無意味ではなかったかと自問するようになったことは、著者が皇軍兵士から、普通の人間に戻ったことを示している。信仰を得たのも、生死の境をさまよった体験と無縁ではあり得ない。その吉田を、占領軍の前に「うなだれた」「敗北者」と呼ぶ江藤は、死に対してあまりに未熟であったとしか言いようがない。人が死の意味を真実に理解するのは、悠久の大義によってではなく、ただ愛によってのみだ。江藤はその後そのことを身をもって知る。

 彼は晩年妻を失うが、不治の病に冒された妻との闘病記『妻と私』は、消えていく愛する命に引きずられるように脱力する、自らの魂のあらがいの記録だ。葬儀の後で彼は妻の「生きよ」という声を聞く。生への執着を妻からの厳命として受けとった彼は、しかし二重のジレンマに陥る。愛ゆえに生に執りすがる自分も、愛ゆえに妻の後を追う自分も、どちらも受け容れがたかったからだ。自らも病を得た彼は「形骸となった身を自ら処決する」道を選ぶ。これはまさに戦艦大和の最期と同じではないか。帝国なきあと老醜をさらす恥辱に堪えず、特攻で果てた戦艦と。そしてその艦と運命をともにすることを「潔い決着」だと信じて疑わなかった吉田 満と。しかし真の指揮官は、大和が90度傾いたとき、生死の境を反転させる。「作戦中止、人員救出ノ上帰投」の号令のもと、艦長と参謀を残し、すべての兵士は海に突き落とされる。死から生への急転直下に戸惑いながら、重油まみれの海で兵隊たちは次第次第に生の世界に引き戻され始める。『戦艦大和ノ最期』のもっとも感動的な場面は、前半の潔い死ではなく、後半の血にまみれ、油にまみれて、「何ダソノザマハ」と哄笑を浴びようと、生きのびようとするなりふり構わない吉田の姿だ。生と死が結節するところで、彼は生の岸に引き上げられる。

「コレゾワガ死スベキ究極ノ時 死ヲ許サレン至福ノ時 故ニコソマタ果敢ニ生クベキ時」(146頁)

救助され、内地の山河を再び見て兵士たちが、「生キルノモ、ヤッパリイイナア」という嘆声をあげるのを誰がとがめることができるだろう。死を不様で醜いものとし、それに徹底的に抗うことは生きる者としての義務ではないか。それを潔しとしない、小林や三島や河上や江藤には、人間の弱さと向きあう強さがない。

とりとめもない話になった。

 

地下壕の長いトンネルを登れば、外は再び真夏の日ざし。おそらく敗軍の将たちも、73年前のこの日に、晴れわたった青空をこんな風に見上げたのだろう。それは、吉田 満の文語体には遠く及ばない、あまりに散文的な終わり方ではあったろうが。

 

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