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2019/08/09 丹沢ホーム 「残りものには福がある」という真実

 

夏が近づくと取りだして読む本がある。中村芳男さんの『丹沢・山暮らし』(1989年、どうぶつ社)。もう何度読んだかしれぬが、梅雨が明け、緑が恋しくなると、またぼそぼそと読み始める。すると、もう何度も読んでしれている内容なのに、引きこまれて最後まで読んでしまう。美しい生き方をした人の話に何度でも聞き入ってしまう。

中村さんは戦争が終わった二年後の昭和22年に丹沢山系の奥地、清川村というところに入って、炭焼きの仕事を始めた。新潟生まれの中村さんが、寄る辺なく、日本中を転々とさすらった末にたどり着いたのは、人跡の絶えた廃屋しかない山中だった。家族は30人。妻と2人の息子の他は、すべて戦争で親を失った戦災孤児たちだった。国家の損失はただの数字でしかないが、人の損失をもっともよく表すのは,親を亡くした孤児たちだろう。野坂昭如の『火垂るの墓』の兄妹のような子供や、復員青年、引き揚げ者が当時日本全国にあふれていた。それを中村さんは一人一人拾い集めながら日本を転々とし、丹沢での家族は最大で70人にもなった。そこは、戦争に敗れ、人生に敗れ、破れかぶれになった人たちが、共同生活を通して、自分を取り戻して再生していく場所となる。家はいつしか「ホーム」と呼ばれるようになった。

国家が沈没し、国民は裸一貫で大海に投げ出され、溺れたくなければ死にもの狂い泳ぐしかない。他人なんぞ気にかけている余裕はない、自分だけはなんとか助かろうと、みながもがいているなか、中村さんはふらりと現れる浮浪児を、失業者を、重病人を、時には前科者まですべてホームに受けいれ、自分たちの食いぶちをけずり、服を売り、いっそう身を削って炭を焼き、鮎を養殖し、草鞋を編み、電気もガスも水道もない山奥で何とか生きのびようとした。

神奈川県の林産課長から、「県に供出する炭を焼くなら、県の建物を無償で貸してやろう」という話に、一も二もなく飛びつくが、その東丹沢県有林は死者がでるほどの難所で、すでに多くの人が断念して山をおりていた。実際、労働は過酷で、険しい崖にしがみついて雑木を一つ一つ伐採し、それを窯まで運ぶ。できた炭をやけどに堪えながらかき出し、炭俵に詰め出荷する。あまりの熱さに上着を脱いで窯に入って、全身火ぶくれになったこともあった。戦災孤児の受入という福祉の理想は高かったが、現実は飢え死にしないためにただ働くだけが精一杯の生活だった。

中村さんが歩んだ道は、そこにいたるまでも茨の道だった。地元の水産学校を出たあと、台湾で水産学校の先生となった。しかし植民地の支配者たることに疑問を感じ、東京に戻り、そこでキリスト教徒となった。国粋主義一色の日本で、「耶蘇教」とののしられ、投獄されながらも、伝導を続け、終戦。進駐軍に取り入って、一転して羽振りのよくなった友人の牧師が、「きたない孤児を教会に泊められない」というのを聞いて、これこそキリストが「白く塗りたる墓」と呼んだものだと憤慨して、東京を出て、茨城の霞ヶ浦に土地を買い、教会を建て、孤児たちと自給自足の生活を始める。しかし、百姓経験のない一家は碌な収穫も得られず、生活は赤貧洗うが如きものとなる。すべてを売り払い、ボロ布を一枚まとうだけになった妻は、「こんなことしたって、誰に喜ばれると言うのでしょう?」とつぶやく。しかし、闇屋の手先になり、スリ、カッパライ、強盗の手助けをさせられている、何の罪もない孤児たちのことを思えば、ここで倒れるわけにはいかない。挫けそうになる自分を叱咤して、祈り働く日々が続く。しかし、2年が経ちようやく落花生づくりが軌道に乗り始めた頃、この土地を追い出されることになる。信用して土地代金を預けた相手はやくざで、交わしたはずの土地の権利書は存在せず、一家は再び無一文になって、路頭に放り出される。わらにもすがる思いで、丹沢の炭焼きの仕事を手にいれたのはその後だ。

中村さんの人生を見ていて、どうしてこんなにも純朴に人を信じ、挙げ句にだまされ、どん底に突き落とされても、信念を曲げず、まっすぐに這い上がってくることができるのだろうかと、不思議になる。この人は何一つ自分の欲のために動くことはない。信念だけが頼りで、計算がない。よって損ばかりしている。それはまるで、死にもの狂いの争奪戦の末、みなが良いものを全部もって行ってしまった後に、ぽつんと残った一番つまらない余りものをしぶしぶ選ぶしかない人生のようだ。

「『余りものには福がある』と言う言葉があるが本当だろうか、と疑いながらも、別にその意味を深く考えようともせず、これまで生活してきた。みんなが腹一杯食って、余ったお菓子の一つ二つを、おくれてきて食べる時の体裁の悪さをかくすことばが『余り物に福・・・』なんだ、くらいに考えて――。だが、いまあらためて記憶をたどってみると、私が終戦後やって来たささやかな仕事はどうやらその回答のようだ。いま思い出してみる私の体験は、まさに『余り物の歴史』でしかないのかもしれない、と思う。」(74頁)

運からも富からも見はなされた「余りもの」の人が、親からも国家からも見捨てられた余りものの戦災孤児を必死になって助けようともがいている。すると、不思議なことに助けの手をさしのべてくれる人が必ず現れる。霞ヶ浦で肥やしを分けてくれた長兵衛さん、薪を規則を破って買ってくれた大津さん、ホームに電気を引く手助けをしてくれた小泉さん、発電機の料金を無利子で貸してくれた新聞記者の池田さんなど、中村さんが天をあおぐと、必ず救世主が現れる。これが「残りものには福がある」ということなのだろう。そうした人々は、最短距離をもっとも効率よくかけ抜けようとする人の目には触れないのだろう。

二年前の夏、この丹沢ホームをどうしても訪れたくなった。国道246号線をはずれ神奈川県秦野のあたりで丹沢山系に入ると、道は次第に急勾配になり、やがて車一台がようやく通れるほどの山道に入りこむ。目の回るほどのヘアピンカーブが続くが、不思議なほど対向車には出会わない。ヤビツ峠を越えてしばらく下ると、「丹沢ホーム」が急な斜面に立っていた。いまは国民宿舎となっているが、「ホーム」というネーミングにこの施設の歴史が刻まれている。そしていまもその名の通り家庭的で暖かいオーナー夫婦に守られている。ご主人の中村道也さんは芳男さんの息子さん。丹沢自然保護協会の理事長もされている。客はわたしたちを除けば、釣客の中年4名だけで、お盆すぎの涼しい夕方、大きなホールで「かも鍋」をいただいた。ここが子どもたちで一杯になることもある。ホームが春と秋に開く「森の教室」へ、小学生と中学生30名が二泊三日で自然体験授業にやって来るからだ。もちろん先生は道也さん。彼が発行する「丹沢だより」からは、教室に参加した子どもたちの興奮した様子が伝わってくる。

翌朝、晴れ上がった空の下、ホームの下を流れる沢におりて川遊びをした。ここで孤児たちはニジマスやヤマメやイワナを養殖して飢えをしのいだ。渓流の水は冷たく心地よい。川に張りだした大きな木の枝にブランコをかけていた道也さんは、わたしたちを見つけて気さくに声をかけてくださった。川辺には、かつて小学校と中学校があり、孤児たちがそこで勉強していたとのこと。いまは草原となった大きな空き地が広がっている。ホームの出身者の最高齢は60歳くらいになるが、ほとんど連絡がないこと。やはり孤児だった過去には触れられたくないのだろうとのこと。川辺の倒木に腰掛けて、わたしたち家族にいろいろな思い出話をしてくださった。道也さんの気さくで親しみやすい人柄は御尊父ゆずりのものなのだろう。偉大な人の面影を間近に見るような思いがして、心安らいだ。

 『丹沢・山暮らし』は、「生き物たち」の記録である。そこでは人間も動物も自然も区別がない。だが、本当は一番幸せなはずの人間がもっとも不幸なことに気づかされる。恵まれた人はいない。ダイナマイトを体に巻いて山に入っていった男の話、「生きていくためにするなら人殺しも正しい」と信じていた上野の浮浪児アキオの話、結核を患い自暴自棄になってホームに流れてきた青田さんの悲しい最期、しゃばで悪事の限りをつくしてホームに逃げ込んできた仲ちゃんが罪を悔いて罰を受け、更生して戻ってくる話・・・しかし、悲しい人生は中村さんのもとで反転する。

これほどまでに人間が粗末に扱われた時代があったことにあ然とするが、それ以上にこれほどまでに絶望に抗った人間がいたということに、ただただ頭が下がる。中村芳男さんの強さは「残りもの」であったこと。そして、それが自分に与えられた最善のものだと信じ、それ以上のものを求めなかったことにある。よく考えてみると、そういう人に「福」が訪れないはずはない。 思えば、いいものばかりを漁り、ガツガツと生きてきた。人を押しのけて手に入れたものが、果たして最善のものだったのだろうか。振り返ってみると、仕方なく最後に手にした残りもののほうが、自分にはお似合いだった。何も残らないこともあるかもしれない。しかしそれでも自分という残りものは残るだろう。それをとる人は必ずいるはずだ。

 

(余談になるが、ホームの設計者は、京都駅や梅田スカイビルや札幌ドームをつくった建築家の原 広司(はらひろし)さんだ。「ご縁がなければとてもうちなんか」とおっしゃっていたが、善人のもとにはご縁は向こうからやって来るものだ。)

 

 

 

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