Ich bin steindumm

2019/11/09 「ベルリンの壁が倒れた?そんなばかな!」

 

 11月9日、ベルリンの壁が倒れて、もう30年も経つのかと感慨深くニュースを聞いた。民主化運動の荒波にさらされて、もはや機能しなくなっていた東ドイツ政府が出した出国規制の緩和令は、東西ベルリンの自由通行許可と誤解されて、大量の東ベルリン市民が検問所から歩いてゆうゆうと西ベルリンに渡った。それは木曜の深夜の出来事だったはずだ。1989年スイスの田舎町に留学していたわたしは、毎週金曜日にある指導教授の演習に出席するために目を覚ましてラジオをつけると、いきなり「壁が倒れました!!」というアナウンサーの絶叫を聞いた。実況現場はものすごい騒ぎで大勢の人がみな声高に叫んでいて、いっこうに要を得ない。壁が倒れたくらいで、何をそんなに大騒ぎしているのか、と怪訝に思いながら登校すると、教室では数名の学生が静かに授業の始まりを待っていた。いつものように何の変哲もない朝の風景。そのとき、「壁って、まさかベルリンの壁?」という思いが一瞬脳裏をよぎった。おそるおそる隣にいたスイス人学生に聞いてみると、「Quatsch! そんなばかな」と一笑に付された。そして授業は何もなかったかのように始まった。スイスの田舎だからではない、それほど誰も予想もしない旧東ドイツの崩壊だったのだ。
  国境を歩いて越えた東ベルリン市民はその夜のうちに、おとなしくまた自分の国に歩いて戻った。なんとも優雅な夜の散歩だが、これに対して西ドイツ政府は、出国許可が取り消されるのを恐れて、東ベルリンからの散歩者に一律100マルクのBegrüßungsgeld(ウェルカムマネー)を出すと宣言した。なし崩し的に国境線をなきものにしようという見え透いた魂胆だが、これこそ、札束さえちらつかせれば、人民の志操などどうとでもなるという、資本主義のおごり以外の何ものでもない。その後、ほんとうに大金をかかえて壁を越えてやって来た西ドイツの首相ヘルムート・コールはブランデンブルク門の前で、東ドイツ市民を前に勝者の雄叫びをあげた。最初はただのハプニングが、あれよあれよという間に二つの国の統一というとんでもない話になり、1年後には東ベルリンどころか、東ドイツという国家も消えてしまった。強いヘッセン訛りを話す田舎者だったからこそ東独の官僚主義を一蹴できたのかもしれない。そのコールも2年前に亡くなった。87歳。自宅のバンガローで家族に見取られて静かに息を引き取った彼を、ドイツのメディアは「偉大なヨーロッパ人の死」という見出しで讃えた。あのブランデンブルク門での夜が、「統一の宰相Einheitskanzler」にとっては人生の絶頂だったのだろう。統一を達成したあと、彼は献金疑惑にまみれ、汚職政治家のレッテルを貼られ、必ずしも幸せとはいえない晩年を送った。一緒に壇上で手をふっていたハンネローレ夫人がその後精神を病み、自ら命を絶ったのも痛ましい。
  ドイツのメルケル首相は追悼会見で、「コールはわたしたちドイツ人にとっての幸運だった」と述べた。それは何より東独で生まれ育ち、東ドイツ崩壊後キリスト教民主同盟に入り、コールに見いだされ、彼の秘蔵っ子として政治家の道を駆け上がったメルケルに当てはまることだろう。彼との確執もあったようだが、「彼のおかげで国家の監視なく生き、政治活動をすることができた」幸運を感謝した。当時、社会主義国では宗教は危険思想と見なされていた。プロテスタントの牧師の家に生まれたメルケルも、盗聴、監視、密告、不当逮捕が当たり前の社会の息苦しさを、身をもって体験していたのだ。
  

 奇妙な偶然だが、コール首相が亡くなったその日、東京の岩波ホールでアンジェイ・ワイダ監督の遺作『残像』を観ていた。2016年10月に90歳で急逝したワイダは、30代で撮った『地下水道』、『灰とダイヤモンド』以来一貫してファシズムや社会主義といった全体主義イデオロギーに圧し潰される人びとを描いた。『残像』の主人公ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキはポーランドの実在の芸術家だ。映画の冒頭、晴れ上がった草原の彼方にストゥシェミンスキが立っている。松葉杖をついた男に片足はない。第一次大戦で重傷を負った後、彼は二度の大戦をくぐり抜け、社会主義国ポーランドで今はウッチ大学で芸術論を教えている。しかしその彼にも弾圧の影が忍び寄る。社会主義リアリズムによる芸術改革を国是とする共産党の方針と真っ向から対立したストゥシェミンスキは大学を追われ、美術館に飾られた彼の作品は撤去され、芸術家協会から除名される。しかし彼は屈しない。反省すれば復職もあるとする当局の忠告をきっぱりと拒否し、彼は決然と自分の信じた芸術に身を殉じる。慕って通ってくる学生たちもいた。しかし職を失くし、収入の道を絶たれた芸術家は徐々に現実に気づかされる。配給券がなければ食料も買えない。芸術家協会の会員証がなければ絵の具も売ってもらえない。節を曲げて共産党のポスター描きの職を得るが、すぐに密告され解雇される。日々の食事にも窮するような赤貧の中で世界的な画家は生涯を閉じる。しかしこの映画でワイダは社会主義と戦った、孤高で高潔な芸術家を英雄視しているのではない。別居した妻の葬儀にも呼ばれず、彼を慕った女子学生にも見捨てられ、家政婦に罵倒され、薪もたばこもコーヒーも尽き、皿に残ったスープを飢えた犬のように舐め、貧民病院で誰にも見取られず息を引きとるストゥシェミンスキは、英雄の対極にいる。
  これがワイダが得意とするリアリティーなのだ。彼は国家に反抗することが、いかに大きな代償を要求するかを、生活者の眼で描こうとしたのだ。飢えも屈辱も絵空事ではない現実だ。国家のイデオロギーに逆らって職を追われる主人公を描いた物語も映画も多いが、そこに描かれるのはあくまで小ぎれいな勇者の姿であり、地位も名誉もうばわれて地に這いつくばらなければならない彼らの現実ではない。そしてその姿に映画館で、あるいは書斎で感動するのは、そうした現実を引き受ける必要も、その気もない静かな傍観者たちだ。ワイダはストゥシェミンスキの哀れな最期を通して、彼の敗北の原因に目を向けるようにいっているように思える。権力との闘いに勝つためには、もっと別の手段が必要だということを。
  

ルーマニア出身のドイツ人作家ヘルタ・ミュラーが2009年にノーベル賞の受賞演説で語った自身の体験も、こうした圧政のもとで生きる小市民の苦しみを描いている。ルーマニアはドイツ本国からははるかに離れているが、ジーベンビュルゲン(いわゆるトランシルヴァニア)と呼ばれる山岳地帯にはドイツ人たちの大きな居住区があった。第二次大戦後社会主義国となり、シャルセスク大統領の独裁政治のもとではドイツ系住民はさまざまな権利を制限されて苦難の中で生きなければならなかった。彼女が語ったのは次のような体験だ。

「20年後わたしはある機械工場の通訳として一人で町にずいぶん長く暮らしていた。5時起床、6時半作業開始。朝は工場の中庭にスピーカで国歌が鳴り響き、昼休みには作業グループがコーラスの練習をした。しかし食堂の労働者たちの目はブリキのように虚ろで、手は油にまみれていた。新聞紙に包まれた昼食をひろげると、口にする前に、まずベーコンの脂についた黒インクをナイフでこそぎ取らなければならなかった。何の変わり映えもしない日々が2年間、来る日も来る日も続いた。
しかし3年目に単調な毎日に終止符が打たれた。ある週の早朝、ぎらぎらと燃えるような青い眼をしたかっぷくのよい大男がわたしのオフィスに3度現れた。秘密警察からの巨人だった。
  初日は立ったままわたしを罵倒して帰っていった。
  2日目は、脱いだ上着を戸棚の鍵にかけて腰を下ろした。この日の朝わたしは家からチューリップをもってきて、花瓶に活けていた。男はわたしをじろりと見て、人間観察の才能がありそうじゃないかと褒めた。声がぬるぬるしていて、ぞっとした。とんでもない、とわたしは打ち消して、チューリップのことならよく知っているけれど、人間のほうはさっぱりですと答えた。すると男はいやらしい声で、チューリップを知っているだって?おれはお前のことをもっと知ってるんだぜ、と言って、上着を腕にかけて出ていった。
  3度目に現れたとき彼は腰掛けて、わたしは立たされた。彼は書類カバンをわたしの椅子の上においていた。それを床におきなおす勇気はなかった。お前はうすのろで、怠け者で、尻軽女で、宿なしのメス犬だと罵倒された。そしてチューリップを机の隅ぎりぎりのところに押しのけて、机の真ん中に白紙とペンをおいた。書くんだ、とドスのきいた声。立ったままわたしは言われたとおり書き取った。名前と生年月日と住所を書いた。そうして、親にも親戚にも誰にも、わたしが協力者であることはあかさないという文言・・・協力者?そんな物騒な文句書けない。ペンをおいて窓のところに行って、砂ぼこりのあがる通りを見た。舗装していない穴だらけの道と背を丸めた家並み。この荒れ果てた道は栄光通りと呼ばれていた。栄光通りには桑の木があり、その上に猫がちんと坐っていた。耳が切れたその猫は工場で飼われていた。猫を朝早い太陽が、まるで黄色いドラムのように照らしている。わたしは、「ナム カラクテルル(そんな性分はありません)」と答えた。キャラクターという言葉がその秘密警察官を激怒させた。書類をびりびりに引き裂いて、床に叩きつけた、がすぐに、協力者捜しをしたことだけは上司に報告しなければならないと気づいたのだろう、彼はしゃがんで、ばらばらになった紙片を拾い集め、書類カバンに突っ込んだ。それから大きくため息をついて、敗北のしるしにチューリップの花瓶を壁に思いきり叩きつけた。花瓶は粉々に砕け散った。歯が飛びでるかと思うほど、ぎりぎりと歯がみをして、カバンをかかえて低い声で、「これですむと思うなよ。川に沈めてやろうか」と言った。わたしはまるで自分に言い聞かせるように言った。「これにサインすれば、もうわたしと生きていけない。自分を殺すくらいなら、いっそあなたがやってください」と。見るとオフィスのドアが開いていて、男はいなかった。外では栄光通りの工場猫は木から家の屋根に飛び移っていた。枝がトランポリンのように揺れていた。」(Herta Müller, “Jedes Wort weiß etwas vom Teufelskreis”, p.8-10より。翻訳筆者)

次の日から「わたし」は毎朝6時半に工場長のところに呼び出され、転職を迫られる。もちろん理不尽な要求をのむわけにはいかない。拒否し続けていると、ある朝、自分の分厚い辞書がオフィスのドアの横に積んであり、ドアを開けると、「わたし」の席に見知らぬ男が座っていて、「ノックくらいしたらどうだ。人のオフィスに入るときくらい」とたしなめられる。秘密警察の手先になるとは、友人や同僚を売ることだ。それをしてしまえば、もはや自分が自分でなくなる。ミュラーは徹頭徹尾それにあらがい、自分の居場所を失う。
  

嫌がらせによる服従が社会主義国に常態化していたことは知られているが、こうした人間の奴隷化は経済システムとは関係なく存在する。川に沈めるぞとまでは言われないにしても、人事権を楯に、服従を強要することはいまの日本の政治の世界ではまかり通っている。わたしたちが「忖度」という言葉で表現する特殊な他者理解は、まさに奴隷になることへの承諾だ。和英辞典にも和独辞典にも「推察」(guess, vermuten)という訳語しかもたないこの語は、日本社会に特有の表現なのだろう。フランス語のdevinerとも違う。日本語のそれは、「人の気持ちを見抜く」ことではなく、自分の保身のために他人に自分らしさを売り渡すことを意味しているからだ。それを拒否するとミュラーに起こったような嫌がらせがこの国でも起こる。国のトップの親族政治(ネポティズム)を暴露した学校経営者が10ヶ月も留置所に勾留されたり、首相に都合の悪い公文書の書き換えを命じられた役人が自殺に追い込まれたり、政府に楯突いた事務次官がスキャンダルを理由に辞任させられたり、原発再稼働の差し止めを認めた地裁判事が閑職に飛ばされたり、ふるさと納税に異を唱えた官僚が左遷されたりと、この国では忖度を拒否し、「物申した」人間の口が次々とふさがれていく。ミュラーはそれを、「自分の吐いたゲロで窒息させられる」と書いたが、そうした嫌がらせは社会主義下のルーマニアでは密かにおこなわれた。秘密警察は「低い声」で脅したし、ミュラーは即刻解雇されたわけでも、川に沈められたわけでもない。それに対してそうしたことが公然とおこなわれる日本は、シャルセスクの独裁国家以下ということか。ここにあるのは民主主義とはほど遠い、恐怖政治以外の何ものでもない。ベルリンの壁は倒れてはいない。嫌がらせの壁はわたしたちの生きる世界にそびえ立っている。
  その壁を越えるためにはどのような闘い方があるのか。
  職場がなくなったミュラーに追い打ちをかけるように、「こいつはスパイだ」という噂が流れ始め、完全に居場所がなくなる。それでも彼女はあきらめない。階段にハンカチを敷いてそこを自分のオフィスにして仕事を続ける。仕事といってももう彼女に与えられる課題はない。あるのはただ辞書だけ。そこに書かれた「コトバ」の世界に遊ぶことで、彼女は自分をかろうじて自分であることにつなぎ止める。Treppenwitzというコトバを見つけてほくそ笑む。「階段の知恵」。会議を終えて部屋を出て、階段を降りているときに「そうか!」と気づくあの思いつきを、階段の知恵という。あとの祭りの意。部屋がなくなり階段をオフィスにするようになった自分を階段の知恵と呼ぶこのユーモア。これこそコトバの偉大な威力だ。声なきコトバは規則も命令もイデオロギーも追ってこれない自由な世界にいる。声を奪われても、身ぶりとモノで人は自分を表現できる。沈黙の自己表現こそ、奪われた尊厳を取り戻してくれることであると気づいたミュラーは孤独を生きのびるすべを修得する。
  人みながストゥシェミンスキのような鉄の意志をもって、命を張って権力に抵抗できるわけではない。「疾風に勁草を知る」というが、風になぎ倒されていても、媚びてはいない生き方が頭の中にある。

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