Ich bin steindumm

2020/02/20 「もし、そうでなければ、もう、それは自分ではないのだ」

 

鶴見俊輔の伝記を読む。
 黒川創の著作は550ページにものぼる長大なものだが、もし本人が自伝を書いていたら、数十巻にもなるのではないかと思えるほど、彼の人生の密度の濃さには驚いてしまう。 有力政治家の息子として生まれ、明治の元勲たちにかわいがられた幼少期を過ぎると「陰険な好色」少年となり、悪所に出入りするようになり、14歳で結婚未遂。素行不良で小中高すべてで放校となり、仕方なくアメリカ留学に送られ、小卒のままハーバード大学へ入学、高名な学者たちの知遇を得るも、無政府主義者と見なされ投獄、太平洋戦争の勃発とともに、交換船で帰国。徴兵されて軍属として中国に出征、危うく残虐行為に荷担しかけ、病いを得て帰国し、日吉の連合艦隊総司令部で終戦。その頃に着想した雑誌『思想の科学』の刊行に復員後は精力を注ぎ、多くの著名な知識人たちをつなぐリベラルなサークルを作りあげ、やがて京都大学助教授に抜擢され、思いもよらぬ学者としての人生を歩み始める。その後、東京工業大学に移動したころから安保闘争に深く関わり市民デモを組織し、安保条約に調印した岸信介首相と「同じ公務員であることを潔しとせず」、あっさり辞職。有名な「ベ平連」を結成しベトナム戦争に反対、「九条の会」を結成し護憲を訴え、「坊主の会」もついでに結成し、15年間毎年8月15日には丸坊主になった。しかし活動の中核にあった雑誌は天皇制問題を扱ったことで経営難に陥り、無職の彼は赤貧洗うがごとき生活に転落、再起を期して結婚するも重い鬱病を患い、引きこもり状態に。見かねた同志社大学が救いの手をさしのべるまで、思想界の表舞台から完全に姿を消す。―-と、これがようやく40歳までの彼の人生で、まだ全貌の半分も語っていない。
  八面六臂の活躍を支えたのは彼の築いた「人間関係」だ。見るからに人付き合いの悪そうな風貌とは裏腹に、この人はとにかく人間とのつながりを大切にした。個人情報にうるさい現代とは違う。すぐに電話をかける。探して会いに行く。頼む。頼まれる。桑原武夫、都留重人、丸山眞男、吉本隆明、司馬遼太郎、小田実、加太こうじ、無着成恭、埴谷雄高、加藤典洋、永井道雄、ライシャワー、金芝河・・・数え上げたら電話帳でもできそうな人間関係を築き、そのネットワークの上で精力的に活動した。多くの人に愛されたのは、彼が「清濁併せ呑む」度量の大きさをもっていたからだ。反戦活動家で、岩国基地の前で座り込み、警察官に排除されれば、今度は基地の近くの河原で凧をあげるイベントを開催し、米軍機の離着陸を妨害。駆けつけた警官と、「ここで凧をあげてはいけない法律でもあるのか」と押し問答になる。真面目とユーモア。いい加減かと思えば、頑固。反骨の闘士かと思いきや、意外とメンタルは弱く、3度も鬱病でダウン。女にいたってだらしないかと思えば、10歳で血判を押して契りを誓う潔癖さ。難しいことばかり書いているようで、実は水木しげるの『河童の三平』を愛し、『サザエさん』の大ファン、漫才好き、愛読書は『ドグラマグラ』と藤沢周平。自分の抱えるさまざまな矛盾を〈悪〉として受け容れるしなやかさが、この人の魅力でもあり、強さでもある。

「自分の中にすむ〈悪〉のおかげで助けられて生きてきた。」

鶴見はこう言う。「善」にもこだわるが、「悪」にもこだわる。その「こだわり」がこの人を支えたのだ。そしてその原点は20代で経験した太平洋戦争にある。

 留置所で卒論を書き上げハーバード大学を卒業すると太平洋戦争が始まり、在米邦人はアメリカにとどまって収容所に行くか、交換船で日本に帰るか決断を迫られる。アメリカで生活する留学生たちにとって、アメリカは日本が戦って勝てる相手ではないことは明らかだった。鶴見の指導教授も、「日本はペリーをはじめ多くの西欧列強の植民地主義を外交手腕でかわした知恵のある国家だ。戦争はない」と断言したが、鶴見は日本は無謀な戦争に突入すると確信していた。そして帰国すれば徴兵され、戦争に引きずり出され、殺し殺されるかもしれないことは百も承知で彼は交換船に乗った。「負け戦を敗戦国の国民として迎えたかったから」だ。

「わたしの日本語はあやしくなっていたが、この言語を生まれてから使い、仲間と会ってきた。同じ土地、同じ風景の中で暮らしてきた家族、友だち。それが「くに」で、今、戦争をしている政府にわたしが反対であろうとも、その「くに」が自分のもとであることに変わりはない。法律上その国籍をもっているからといって、どうしてその国家の考え方を自分の考え方とし、国家の権力のいうままに人を殺さなければならないのか。私は、早くからこのことに疑問をもっていた。同時に、この国家は正しくもないし、かならず負ける。負けは「くに」を踏みにじる。そのときに「くに」とともに自分も負ける側にいたい、と思った。敵国家の捕虜収容所にいて食い物に困ることのないまま生き残りたい、とは思わなかった。まして英語を話す人間として敗北後の「くに」に戻ることはしたくない。」(『思い出袋』 岩波書店162頁)。

しかし鶴見はこの決断を英雄的なものとは考えていない。むしろこれが〈悪〉だという。なぜなら彼は〈悪〉の国家に帰り、その軍属として戦争に参加したからであり、にもかかわらず南方戦線にいる間もずっと「くに」が負けることを願っていた〈悪人〉だからだ。この人はずっと何か〈やましさ〉のようなものに苦しめられ、あるときそれと同居することに成功したのだろう。そしてそのマイナスの力のおかげで生き残ることができたのだ。
  ベトナム戦争中、米軍基地から脱走してくる米兵をかくまう活動をしたのは、大戦中自分も脱走したかったから。ここにもやはり〈悪〉を助ける〈悪の自分〉がいる。軍属時代、捕虜の虐殺を命じられそうになる。たまたま席を外していたおかげで、彼の同僚がその任務を遂行する。苦しむ同僚を見て、助かった、と思うのではなく、やはり同じく命令に従って殺人を犯したはずの自分の〈悪〉を直視しようとする。以前紹介したヘルタ・ミュラーは秘密警察の協力者になるように命じられ、「もし、それをしたら、もう、わたしではなくなる」と言った。悪に手を染めれば自分ではなくなる。しかし鶴見はこれを裏返して言う。「もし、そうでなければ、もう、それは自分ではないのだ」(黒川創『鶴見俊輔伝』 新潮社338頁)。〈悪〉である自分も自分。結果的に殺人を犯さなかったが、殺人を犯していてもおかしくない自分を認めるからこそ、それに本気で抗うことができる。「坊主の会」をつくって15年間終戦記念日に頭を丸めたのも、自分の悪を認め、自分に抗議するためだ。
  こうした生き方、何かニーチェを思い出させる。彼は、「徳は自らを刺すサソリのようなものだ」と言った。しかしだからこそ人は徳をもつべきだと彼は言う。なぜなら人間は超越されるべき何ものかであり、それゆえ徳とともに没落しなければならないからだ、と。徳の刺す毒針が〈悪〉なのだろう。その〈悪〉の傷の痛みがあって初めて、本当の徳とは何かがわかる。〈悪〉をもたない徳は、ただの正義の味方、月光仮面(古い!)に過ぎない。鶴見俊輔の生き方に触れて、「自分」とは何なのかを何度も考えた。こんなに長く生きてきて、そんなこともわからないのかと言われそうだが、そう、わからないのだ。ニーチェ風に言えば、「重苦しい運命」しか知らないからだ。
  さて、何とか拾ってもらった同志社大学だが、大学紛争のまっただ中1970年、大学に立てこもった学生を排除するために教授会が機動隊に出動を要請したことに抗議して、ここも辞職する。正義のためではない。「自分たちの学生なら、自分たちで殴るか、自分たちが殴られるしかない。警察に殴らせることは許されない」というのがその時の弁だ。これも〈悪〉をもって〈悪〉を制す論法。奥さんに相談もしないで勝手に辞めたので、怒られると思いきや、「鬱になるよりもまだまし」とあっさり言われる。鬱とは自分自身を受け容れられないときの彼の拒絶反応なのかもしれない。正直に〈悪〉をつらぬいたおかげで、鶴見はその後の日本の良心たり得た。

 

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