Ich bin steindumm

2020/04/07 上原家の三兄弟は家族のその後を知ることはなかった

 

 知覧にある特攻平和会館の展示物の中でとりわけ目を引くのが、ある特攻隊員の残した、「願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を、国民の方々にお願いするのみです」という言葉だ。胸をうつこの言葉、どこかで聞いたはずだが、それがどこでなのかすぐには思い出せなかった。ずいぶんしてそれが、戦没学生の手記を集めた『きけわだつみのこえ』に収められた、若い特攻隊員の手記の文言だったことに気がついた。

 同じく彼の書いた遺書は、この本の巻頭を飾っているが、そこには、死が必然となった青年が「決断と寄る辺なさ」に引き裂かれる悲しい姿が描かれている。名誉ある戦死を喜び、家族に別れを告げる哀別の辞に続いて、日本の全体主義、軍国主義が必然的に滅びることを宣言する。「私は明確に言えば自由主義に憧れていました。日本が真に永遠に続くためには自由主義が必要であると思ったからです。」自由主義の国が必ず勝ち、日本は必ず負ける。それはつまり、彼の理想が勝利し、彼自身が死ぬことを意味した。

 この遺書を書いた上原良司さんが慶應義塾大学の学生だったことはよく知られているが、彼に二人の兄がいて、ともに慶應大学に学び、3人とも召集され、3人とも戦死したことはあまり知られていない。信州安曇野で小さな医院を開業していた上原家は、3人の息子を一気に失った。長男の良春さんは慶應大学医学部を出た後、志願して陸軍の軍医となる。彼が軍医となったのは、父の寅太郎さんが同じく軍医として出征していたことと、おそらく関係しているだろう。寅太郎さんは愛国主義者で、国に奉仕する長男を誇りにしていた。次男の龍男さんも慶大医学部出身で、父親は彼に医院を継がせたいと考えていたようだ。卒業後海軍に入団し、潜水艦勤務となる。三男の良司さんは慶應大学経済学部に入学し、昭和18年に徴兵猶予が停止されて学徒出陣し、陸軍の航空隊に配属となった。3人の兄弟の下には妹が2人いて、7人家族は戦争が始まるまではごく普通の生活を営んでいた。

 厳格で折り目正しい長男良春さんに比べ、次男の龍男さんは妹思いの優しい兄で、帰省するたびにいろいろなお土産を買ってきた。三男の良司さんは遺書にもあるように、「ややもすれば我儘」で、リベラルな思想に傾倒し、父親とたびたび衝突したようだ。それは、この遺書とは別に、出撃の前日に軍の報道員に求められて記した「所感」(『きけわだつみのうた』収録)にも明らかだ。彼はイタリアの反ファシズムの思想家クローチェに傾倒し、全体主義国家日本の敗北を確信していた。

 彼が残した遺書には、矛盾する心境がぶつかり合って火花を散らしている。特攻隊に選ばれたことを身の光栄としつつも、「理性をもって考えたなら、実に考えられぬ事で強いて考うれば、[・・・]自殺者」にすぎないと切り捨てる。しかし、こんな精神状態で征(い)ったら、死んでも何にもならない。だから光栄に思うしかない、という葛藤。自由主義の国家が勝利するのは、歴史が証明している。それは祖国にとって恐るべきことだが、「私にとっては嬉しい限り」という、心の揺れ。人格も感情もない一器機である自分にはもう何もいう権利はないが、「願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を、国民の方々にお願いするのみです」と最後の言葉は結ばれる。良司さんは昭和20年5月11日、沖縄にむけて出撃し還らず(享年22才)、龍男さんは昭和18年10月22日、乗艦していた潜水艦が撃沈され戦死(享年25才)、良春さんは終戦の一ヶ月後の昭和20年9月24日、ビルマで戦病死した(享年30才)。三兄弟の誰の遺骨も両親の元には戻らなかった。

 現在、慶應義塾福澤研究センターの都倉武之さんを中心に『長野県安曇野市 上原家資料 1 ―戦没した慶應義塾出身の三兄弟 上原良春・龍男・良司関係資料を中心に―』(慶應義塾大学出版会 2019年)が編集中である。いまも安曇野の実家に残る、3人の兄弟の子供時代からの青年期までの日記や手記、写真、遺書、戦死報告までの資料を整理し、彼らの短い生涯と、かけがえのない息子三人を失った家族の悲劇を記録しようという試みだ。これを読めば、三人の兄弟を中心とした、ファミリーヒストリーが浮かびあがる。モデルにした映画も撮られ、ラジオ小説も書かれるなど、次男良司さんの青春時代については脚色されているとはいえ、ある程度知られている。今回この『資料』を読んで、特に彼を取り巻く上原家という家族についての思いを新たにした。そこに読み取れるのは、個人の死だけではなく、戦争が家族をも殺してしまうという残酷な事実である。「言葉を禁じられ」縊死する家族の姿がそこにある。

 「所感」や「遺書」にもあるように良司さんは自由主義者を自認していた。最後の帰省の際に彼は妹に、「日本は負けるよ」と言ったという。そうした言葉を口にしてよいわけがない。妹はすぐに雨戸を開けて誰も聞いていなかったか確かめる。彼女に兄はまた、戦死した友人の飛行機の風防ガラスを見せる。「こすってごらん。果物のにおいがする。」妹が嗅いでいると、兄は突然、「僕は靖国へはいかないからね」、「天国にいるから」と言う。立ったまま聞かされたこのお別れの言葉を、妹はただ呆然と聞くしかなかった。この言葉を良司さんは本当は両親に伝えたかったにちがいない。しかしそれはできない。言葉を預かった妹も、母にも父にもそれを伝えることはできなかった。

 特攻隊に選ばれると隊員は最後の帰省を許される。だが彼らは家族にはっきりと別れを告げることは許されていない。良司さんは見送りに出た母と妹にふり返って、穂高川の橋のたもとで大きな声で「さようなら」と三度叫んだという。それが別れの挨拶かもしれないと母親は予感したが、別れは一方的で、母は息子たちの真意を忖度するしかない。

 良司さんの最後の手紙が届き、遺書が部屋の本棚の引き出しにあることを知った父は、娘にとってくるように言う。自分で取りに行けない。なぜなのか。そしてそれを読んだ父は、それについて何も語らない。息子が自由主義者として死んだことを良しとしなかったからか。わからない。上の兄たちの遺書についても家族は口を閉ざした。

 死が家族の間で封印され、悲しみが行き場を失う。皇国の危機の前では、個人の感情など取るに足らないものだと、自分に言い聞かせるしかないのは特攻隊員だけではない、銃後の家族もそうなのだ。

 母与志江さんは次女に、「お父さんが殺した」と言っていた。もちろんこの言葉は夫には伝えられなかっただろう。ということは息子の死についても夫婦で納得しあったことはないということだ。彼女は戦後、長男良春さんの最後を知る元戦友のところへ何度も通い詰め、話を聞いたという。また良司さんが飛び立った知覧の飛行場にも5度足を運んでいる。靖国神社には3回参っている。それは、封印された言葉を求める旅だ。しかし同行した次女は良司さんがそこには帰らないと、自ら語った言葉を母に最後まで伝えることができなかった。母親が憐れだったからだ。

 父寅太郎さんは、最後の望みが絶たれたのを知ると家族に、「ここで俺はもうひとふんばりしないといけない」とだけ告げる。三人の息子を皇国に捧げながら、戦いに負けた無念さは人前では表せない。良司さんの遺書が戦没学生の手記として公開されたことに納得がいかず、手記を編集した「わだつみ会」を「共産党」と罵る。しかし、婿養子に迎えた義理の息子にだけは彼は、「先はいけない。子供に先に死なれるのはいけない」と漏らしていたという。家長としてのプライドなのか、寅太郎さんはこうした感情を女三人と決して共有しなかった。誰も泣き出せない家族が生まれる。

 次女へのインタビューで、やはり義理の息子に母与志江さんが「死にたい」、「だけど人に迷惑がかかるからそれはできない」と漏らしていたことを初めて聞いて、娘は絶句する。そして、義理の息子もこの言葉を妻にはそれまで告げられなかった。「墓へ入るまで何も言わないでおこうと思った。」なぜなのか。なぜ肉親の死が、悲しみに寄り添い、寄り添われる構造がつくらせないのか。

 愛する息子と兄たちを次々と失った家族が、哀切の感情を封じ込められて、ばらばらになっていく姿がぼんやり浮かび上がる。

 感情を殺して一器機となって死地に赴いた良司さんが最後に残した、「願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を」という言葉は、民族が再び自由民となって再生してほしいという訴えだったはずだが、その彼の死によってひとつの家族が言葉を失い、再生できなくなったことは痛々しい。

 この家族の記録を読んで感じるただ一つの救いは、良司さんが多感な青年だったことだ。彼は辞世の句を原節子のブロマイドの裏に書きつけるような情熱的な青年だった。彼を悲劇のヒロインに描きたがる物語作家たちは、そうした一面を墨塗りにしていくが、それは間違っている。感情が禁じられた空間で、良司さんは懸命にもがいたのだ。愛読したクローチェの本にも不思議な謎かけをして、遺書とともに残した。印をつけた文字をつなげて読んでいくと、「きょうこちゃん さようなら 僕はきみがすきだった」というラブレターが現れる。きょうこちゃんとは幼馴染みの石川冾子で、彼は彼女に密かに想いを寄せていたが、冾子は別の男性と結婚してしまう。だが彼女はまもなく結核を得て亡くなってしまう。良司さんの「所感」にある「愛する恋人に死なれて」というのは、彼女のことだ。その恋人に天国で会えることを夢みて、彼は出撃したのだろう。その日は奇しくも、冾子が亡くなったちょうど一年目の命日の日だった。

 

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