Ich bin steindumm

2022/03/31 9回裏ツーアウト 逆転さよなら満塁ホームラン

 

チームが最終コーナに入ろうとしたとき、最後尾の選手がバランスを崩し、遠心力にのみ込まれて場外に吸いとられるのが見えた。残りの二人は茫然とゴールラインを超えた。優勝はその瞬間に消えた。

北京オリンピックの女子パシュートの決勝は誰も予想しなかった幕切れで終わった。世界一美しいと言われた日本女子チームの隊列が崩れ、アンカーがまさかの転倒をしたとき、日本中から悲鳴が上がるのが聞こえた。

日本女子パシュートチームが平昌オリンピックで強豪オランダをねじ伏せ、金メダルを取ったことは記憶に新しい。小柄な日本人女子は、体格でも体力でも勝るヨーロッパ人に競り勝つために、一年のほとんどを寝食を共にして合宿し、一糸乱れぬスケーティング技術を身につけた。彼女たちのフォームはまるで舞踏芸術のように美しかった。計算されつくした美しさは、力まかせの走りに1秒以上も差をつけてゴールした。そして4年後の北京でも彼女たちのスケートは世界一のレベルを保ったまま、決勝へと進んだ。

誰もが信じて疑わなかった金メダルが氷面を滑るように消えていくのを見て、ため息をつかなかった人はいないだろう。転倒した選手はいつまでも泣きやまなかった。彼女を責めることは誰にもできないだろう。しかし銀メダルは鈍く光って見える。

スポーツには劇的な幕切れというものがある。9回裏ツーアウトで逆転満塁ホームランを打たれて、ごひいきのチームが負けたときのショックは大きい。ほとんど手にしていた勝利が、目の前で手をすり抜けるときの敗北感は、まったく見込みのないゲームを落とす時の何倍も大きいだろう。広島にいた頃、「大野で負けたんじゃけ、しょうねえわ」と酔客がカープ戦の後でこぼすのをよく聞いた。諦めきれない気持ちに諦めさせるためには言い訳が必要だ。大野ががんばったのを見れただけでもよかった、そのために来たのだと。

この言い訳はしかし負け惜しみではなく、わたしたちが生きることにもっと重要な意味をもっている。

ハーバード大学医学部教授のアトゥール・ガワンデは著書『死すべき定め』(みすず書房 2016年)で終末医療のあり方について自己の臨床経験からさまざまな問題提起をしたが、そのなかで、経験する自己と、記憶する自己の葛藤が人生の最後のときの意味を決定するとした。

「なぜ、フットボールのファンは試合の最後のたった2,3分間のミスのために3時間にもおよぶ至福の時をぶち壊されたような気分になるのだろうか。」(239頁)

いうまでもなく、全体の価値は最終結果によって判断されるからだ。どんなゲームでもそこに至るまでの過程は、結果にのみ込まれる。勝敗がつくから、勝負は面白い。この過程と結果の関係は、医学用語では「ピークエンドの法則」と呼ばれる。

ノーベル賞学者のダニエル・カーネマンは、『ファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか?』で、人がどのように苦痛を感じるのかをテストした。患者に苦痛を伴う治療をする際、60秒ごとに痛みの度合いを1から10の数で報告させる実験をおこなった。その人の痛みの度数は当然この数字の総和からとった平均となるはずだが、術後の患者の痛みに対する評価は、その数とは一致しなかった。多くの患者は、「最悪の瞬間の痛みと、最後の瞬間の痛みのレベルの平均から」、つまりピークとエンドの平均値から自分の受けた処置の痛さを理解していたのである。それによれば、過程がどんなに苦痛に満ちていても、治療の最終段階でそれが和らげば、患者の苦痛点数は下がって、「まあ、そんなにひどいもんじゃなかったね」となってしまう。カーネマンの研究成果を応用して、快楽度を測っても、結果はやはり同じだった。ひどい人生を楽しくしたり、楽しい人生を苦しくさせる錯覚は、「経験する自己」が「記憶する自己」に負けるから起こるのだと、ガワンデは言う。経験する自己は、生きる瞬間、瞬間を楽しみ、または苦しんで採点してるが、いよいよ最後になると、その総点をまったく無視した記憶する自己が登場し、人生の意味を大逆転させてしまう。安らかな大往生であれば問題ないが、死は往々にして病苦と結びついているので、数十年の幸福な人生は最後の数年の苦痛で、「敗北」と決めつけられてしまう。

「経験する自己」と「記憶する自己」のどちらの判定に従うのか、それは難しい問題だ。ガワンデは臨床経験豊かな医師として、そしてまた実父をがんで失った息子として、当然「経験する自己」の判定に従うべきだとする。記憶する自己は、あるべき健康なわたしを仮想的に作るために、生物的に不自然な化学療法や放射線治療に自己をゆずり渡し、地上で過ごす最後の至福の時間を台無しにしてしまう。

「今を犠牲にして未来の時間を稼ぐのではなく、今日を最善にすることを目指して生きること」(228頁)。

確かにそうだ。それまでの興奮と快楽を忘れて、9回裏に決まる勝敗にだけ一喜一憂するのは愚かかもしれない。多くの医師が末期のがん患者にやんわり勧める「緩和療法」や「ホスピス」は、9回裏の攻防をあきらめて、負けを受けいれ、「大野で負けたんじゃけ、しょうねえわ」と言わせるためのものなのだろう。

すべての生物に定められた「自然の秩序」であるはずの「死」を「敵」と読みかえて、人工呼吸器や、ICUでチューブにつなぎ、この戦いに勝ちぬくことが家族の使命だと考え、医師もその不自然な戦いに参加するよう強いることは、現代医学の立場から間違っているとされつつある。なぜなら「老化」は命の偶然の「敗北」ではなく、生まれたときからその種に遺伝的に正確にプログラムされた必然だからである。その証拠に、自然に生きる動物にはおおむね共通した寿命がある。終末期の患者に最後まで死にあらがうのではなく、QOLを選ぶように勧めることは現代医学の趨勢だ。QOLとはクオリティー・オブ・ライフ、人生の質である。ガワンデは言う。

「末期がんの患者の中で、人工呼吸器につながれたり、除細動器によるカウンターショックや胸部圧迫による心臓マッサージを受けたり、臨死状態でICUでの入院治療を受けたりした人は、そうでない人と比べて明らかに最後の一週間のQOLが悪かった。そして、死から6ヶ月後の時点で、そうした治療を受けた患者の家族など、介護に当たっていた人が大うつ病で苦しむ割合は3倍に増えていた。末期の病気のためにICUの中で人生最後の日を過ごすことは、ほとんどの人にとって一種の失敗だ。寝たきりのまま人工呼吸器につながれ、すべての臓器は機能を失い、蛍光灯で煌々と照らされた大部屋から二度と出られないことを理解できないまま、心は錯乱と昏睡の波間を漂う。「さよなら」や「大丈夫だよ」や、「ごめんね」「愛している」などというチャンスはまったくないまま終わりがやってくる。」(ガワンデ、151頁)

QOLは「経験する自己」が最後まで自分であること楽しむことなのだろう。そのクオリティーには当然「鎮痛」が含まれる。「ごめんね」も「愛してる」も、痛くない死に方があってこそのものだろう。しかしそのあたりに、この緩和療法やホスピスの論理の「ほころび」も感じる。

人生最後のクオリティーとは「痛くないこと」の言い換えなのではないか。

 

その思いは、映画『けったいな町医者』を観たときにももった。尼崎市で在宅医療に取り組む名物医師、長尾和宏さんのドキュメントだ。彼は2500人以上の患者を看取った経験から、終末期患者に大病院での延命治療ではなく、自宅での平穏死をサポートする。自宅で息絶えた80歳の老人の死亡診断をしに出かけるシーン。妻のパンツをはいて布団の上で事切れた夫の横で、妻が冷静に話を聞いている。おそらく夫婦のすべてのドラマが完結したのだろう、妻には安堵しているような表情がある。この医師のバイタリティーはものすごい。映画の撮影中にも、次々と老人たちが亡くなっていく。被写体となる死体にこれほど抵抗なく向き合えるのは、これが幸せな死だったからかもしれない。彼の著書『痛くない死に方』には、病院で亡くなった遺体は、自宅で亡くなった遺体に比べて10キロ以上重いというエピソードが紹介されている。この10キロは薬の重さだ。自然死する人間は次第に枯れて軽くなっていくものだが、延命治療はそれに逆らっておこなわれる「薬による溺死」ということになる。

横浜の小さなミニシアターでおこなわれた上映会には、長尾医師が舞台挨拶に来て、観客とトークショーをする企画もあったが、わたしはあえてその日を外して観た。長尾さんと会うとどうしても質問せずにはいられない気がしたからだ。

「平穏死は、あらがってもどうせ残り数年の命の老人には有効でも、若くして不治の病に冒された患者には受け容れられない死に方なのではないのか?」

けったいな町医者が看取るのは老人ばかり。老人が「平穏死」できるのは、モルヒネによって物理的に「痛くない」状況が用意され、精神的に「係累がない」からだ。それに反して、多くのものにつなぎ止められ、この地上に残る意味を失っていない若い命が痛くとも、ジタバタとあがいて何が悪いのだろうか。何十年も早く訪れる終わりを「自然ではない」と考えるのを誰が笑えるのか。


「危険から守られることを祈るのではなく、
恐れることなく危険に立ち向かうような人間になれますように。
痛みが鎮まることを祈るのではなく、
痛みに打ち勝つ心を乞うような人間になれますように。
人生という戦場における盟友を求めるのではなく、
ひたすら自分の力を求めるような人間になれますように。
恐怖におののきながら救われることばかりを渇望するのではなく、
ただ自由を勝ち取るための忍耐を望むような人間になれますように。
成功のなかにのみ、あなたの慈愛を感じるような卑怯者ではなく、
自分が失敗したときに、あなたの手に握られていることを感じるような、
そんな人間になれますように。」(タゴール)

無痛とひき替えに、戦いをあきらめるよう説得するのは、刑事責任を問わないことのひき替えに自白を強要する司法取引に似ている。「吐いて楽になれ」と。しかしどんな最後であれ、生きたことに責任があるように、死に方にも責任がある。苦しみは喜びがあったことの証だ。キューブラー・ロスが引いたタゴールの言葉は、人生に言い訳をしない覚悟を表している。敗戦の痛みを恐れて、勝利への努力を捨ててしまわない若者の覚悟を。

9回までの手に汗にぎる攻防を楽しめるのは、逆転満塁ホームランにがっくりと肩を落とせる者だけではないだろうか。

 

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